なか2656のblog

とある会社の社員が、法律などをできるだけわかりやすく書いたブログです

カテゴリ: 憲法

net_senkyo
最近、あちこちの政党や官庁、マスメディア等で、国民の民意を収集・分析するためにSNSをAIで分析等する動きが盛んであるように思われます。

例えば、国民民主党などが積極的にこのような取組みを推進しており、また東京都もAIを利用して都民の声を吸い上げる「ブロードリスニング」という取組みを行っているようです。

ブロードリスニング
(東京都の「ブロードリスニング」、「2050東京戦略 ~東京 もっとよくなる~」|東京都 より)

7月20日に投開票が実施された参議院選挙においても、政治におけるAIやITの利活用を掲げるチームみらいが議席を獲得し、X(旧Twitter)上では、多くのAIやITの専門家や法律家の方々がポジティブな反応をされています。

もちろん、政治にAIやITを導入する方向は、時代の流れでとても良いことだと思うのですが、しかし大丈夫なのかという懸念もあるものと思われます。そもそも、AIでSNS等の情報を集約・分析すればそれが「民意」なのだろうか?という疑問が、憲法学や政治学の分野からは提起されるものと思われます。

"議会での議論なんかどうでもいい。街頭での国民の拍手喝采こそ民主主義だ"という考え方で第二次大戦前・中のドイツはナチズム・全体主義に陥ってしまいました。やはり政治分野においては、限られた人数の国民の代表を集めて一定期間自由な議論をさせるという、議会での冷静・慎重な熟議が重要なのではないかと思われます。

この点、憲法学・情報学の山本龍彦教授は、最近の「AIで民意を予測する」という動きについて、「結局、AIで国民の多様な声を可視化できても、最終的な意思決定を下すには多くの議論や価値判断が必要になる。AIよって可視化された多様な声をチューニングして「私たちの意思」へと練り上げるプロセスが不可欠というわけだ。AIを使っても、「政治」の領域を消去することはできない。」「こう考えると、私たち国民の意思とは「もともと存在するもの」ではないことがわかる。議会という場で、議員による自由な討論を通じて多様な利害(マイノリティーの利益も含めて)が調整され、高度な価値判断を経て1つのものとしてまとめあげられていくもの。それが国民意思なのである。今日では、選挙で多数派を形成した者の声がダイレクトに政策に結びつけられることが「民主主義」であると誤解されることも多く、こうした代表制の基本的な考えが意識されることが少なくなっているように感じる。」と論じておられることが、非常に示唆に富むものと思われます。

・「選挙をのみ込むアテンション、欲望の集積は民意か 慶大・山本龍彦教授 デジタルと民主主義(中)」日本経済新聞2025年7月10日

このように、最近の多くの政党や官庁、マスメディア等の"AIを使ってSNSや社会の「民意」を集約すれば、それだけで良い民主主義を実現できる"との考え方や動きには危うさを感じるものがあります。

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seiji_kokkai_gijidou

1.はじめに
NHKなどの報道によると、本日の国会で、石破首相が「企業献金禁止は企業の表現の自由を保障した憲法21条に抵触する」旨を発言したとのことです。首相の念頭にあるのは企業献金は違法ではないとした八幡製鉄事件判決(最高裁昭和45年6月24日判決)だと思うのですが、あの最高裁判決は憲法学界から批判が大きいところのはずだよなあと思い、憲法の教科書を開いてみました。

2.法人の「人」権?
そもそも企業・団体などの法人に政治活動の自由や政治的表現の自由(憲法21条1項)が認められるかが問題となりますが、人権は「個人の権利」であるからその主体は本来人間でなければならないものの、経済社会の発展にともない、法人その他の団体の活動の重要性が増大し、法人もまた人権を有する主体であると理解されるようになっています。そのため、人権の規定が「性質上可能な限り」法人にも適用されることは判例・通説の認めるところとなっています(結社の自由、信教の自由、プライバシー権など)。冒頭であげた八幡製鉄事件判決は、法人が人権を有することを正面から認めた初期の判決ですが、この点は正当であると思われます。

3.企業の政治活動の自由、企業献金への憲法学説の見解
しかし、人権は個人の権利として生成・発展してきたものですから、それを法人にも認めるとしても限定的に認めることが必要であると憲法学説はしています。つまり、法人の精神的な自由権、たとえば政治的行為の自由については、「法人の持つ巨大な経済的・社会的な実力を考慮に入れると、一般国民の政治的自由を不当に制限する効果をともなったりする等の場合がありうるので、自然人と異なる特別の規制に服すると解すべきである」と学説はしています(芦部信喜・高橋和之補訂『憲法 第8版』92頁)。

このように学説の通説的見解は考えているため、八幡製鉄事件判決が「(企業による)政治資金の寄付もまさにその自由(=政治行為の自由)の一環であり、…政治の動向に影響を与えることがあったとしても、これを自然人たる国民による寄付と別異に扱うべき憲法上の要請があるものではない」と判示して特別の制約を認めず、無制限の政治活動の自由、無制限の企業献金の自由を認めたことについては「この点で、この判決は行きすぎであり妥当ではない。」と批判しています(芦部・高橋・前掲94頁)

4.まとめ
このように、石破首相や自民党が(おそらく)八幡製鉄事件判決を念頭にして、企業献金は企業の政治活動・政治的表現の自由(憲法21条1項)の観点から許されると主張することは正当であると思われますが、しかし同判決については憲法学説から強い批判がなされていることをスルーしている点についてはややズルい、一見、憲法を持ち出して法令を重視しているように見せて、その実は憲法や法律学に誠実ではないように思われます。

法人の献金などについては、やはり「法人の持つ巨大な経済的・社会的な実力を考慮に入れると、一般国民の政治的自由を不当に制限する効果をともなったりする等の場合がありうるので、自然人と異なる特別の規制に服すると解すべきである」と考えることが妥当であるように思われます。

企業・団体献金を企業の政治的な自由・政治的表現の自由(憲法21条1項)と考えること自体は正しいとしても、それは無制限の権利ではないのであり、「公共の福祉」の観点からも何らかの法律的な規制が必要なのではないでしょうか。

■追記(2024年12月11日)
このブログ記事を書いた後に、石村修・専修大学名誉教授(憲法学)の「会社による政党への寄附-八幡製鉄事件最高裁判決・再読-」『法と民主主義』2024年5月号に接しました。同論文も「政治活動は、本質的には自然人の判断で決定されるものであり、会社が関与すればそこに利権が絡むことは必至である。」と、八幡製鉄事件判決を批判しています。

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smartphone
山本龍彦先生の『アテンション・エコノミーのジレンマ <関心>を奪い合う世界に未来はあるか』(2024年8月)を購入し、さっそく山本先生と森亮二先生との対談の個人情報保護法制に関する部分を読みました。

ケンブリッジ・アナリティカ事件、リクナビ事件等のあとの、最近の生成AIの発達・普及をうけて、広告業界やプラットフォーム業界、世界や日本の個人情報はどうなってゆくのかという点が非常に興味深いと感じました。(これまでますます力を強めてきたGoogleが、chatGPT等の普及による”検索をしない世界”の到来に大いに慌てているのではないかという予測等など。)

また、日本の個人情報保護法がプロファイリングについてほとんど規制を設けていないことはやはり大問題であること、「個人を特定できるか」が重要なのではなく、事業者などが「個人の認知システムにどれだけ働きかけるか」が重要なのであることは本当にその通りだと思いました。

さらに、デジタル社会において「個人の自律性・主体性」を回復するためにはやはり自己情報コントロール権や情報自己決定権の考え方が重要だと感じました。

高木浩光氏や鈴木正朝教授などの「関係のない情報による自動処理・決定・差別の防止」の考え方ももちろん重要ですが、「関係のない情報による自動処理・決定・差別の防止」の考え方では個人の自律性・主体性の回復、もっと言えば憲法や法律学が核心の価値として掲げる、個人の尊重や個人の基本的人権の確立の価値は導き出せないように思いました。

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seiji_kokkai_gijidou

前回のブログ記事では、「憲法改正を大臣や国会議員などが主張することは憲法違反なのか?」という問題を考えてみました。
・憲法改正を大臣や国会議員などが主張することは憲法違反なのか?ー憲法99条・96条・憲法尊重擁護義務・憲法改正の限界

この問題に関連し、石村修・専修大学名誉教授(憲法学)の「憲法尊重擁護義務と最高権力者の言葉」『法律時報』89巻5号(2017年5月号)45頁を読んでみました。

同論文は、憲法尊重擁護義務(憲法99条)の条文が最高法規の章にあり、同章は97条が最高法規(=憲法)は基本的人権を中核とするものであることを宣言し、これを中心として構成される憲法が最高法規であり(98条1項)、「この憲法」を国家機関の構成員は遵守する責務(憲法尊重擁護義務)を負わねばならないと規定していることから、99条の義務は道義的な義務ではなく法的な義務であるとします。

そのため公務員が職務を遂行するにあたり憲法違反の行為があったときは、罷免その他の懲戒処分を受けることが免れないが、国務大臣等の憲法侵害行為について弾劾制度が設けられていないのは、憲法および法律の重大な欠陥であるとします。

とはいえ現行制度上も、内閣総理大臣や国務大臣が憲法侵害行為を行った場合には、政治的には内閣不信任決議や問責決議がなされ、司法的にも行政訴訟により責任を問う余地があるとします。(同論文は、国会法の改正により国務大臣の弾劾制度の創設を提言しています。)

その上で、同論文は、内閣総理大臣が憲法改正を提言できるかについては、96条の文言から消極的に解すべきであること(96条には国会議員の文言はあるが総理大臣の文言はない)、96条にある国会議員は、憲法改正提案権の範囲内で99条から離れると考えられるが、しかしその場合でも憲法改正の限界はある、としています。(石村修「憲法尊重擁護義務と最高権力者の言葉」法律時報89巻5号(2017年5月号)45頁より)

このように、憲法尊重擁護義務の法的義務性を重視する考え方によれば、内閣総理大臣が憲法改正を提言できるかについては、96条の文言から消極的に解すべきであること、ただし国会議員は憲法改正を提言できること、しかしその憲法改正の内容が憲法改正の限界を超える場合には、前回のブログ記事でふれたとおり、やはりその憲法改正は無効なものとなるということになるようです。

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seiji_kokkai_gijidou
1.憲法改正を政治家が主張することは憲法違反?
最近、X(旧Twitter)上で、「憲法改正を大臣や国会議員などの政治家が主張することは憲法違反(憲法99条)なのか?」という論争が起きているようです。

例えばこの投稿はリプ欄で賛成・反対多くの論争を巻き起こしているようです。

Drナイフ投稿
(Dr.ナイフ氏(@knife900)の投稿より)

2.憲法96条・99条
この憲法上の論点を考える上で、まず前提として、憲法は憲法改正(96条)の規定と憲法尊重擁護義務(99条)の規定を置いています。

憲法
第九十六条 この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。

第九十九条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ

つまり、憲法上には憲法改正の規定がある一方で、国務大臣、国会議員、公務員等は憲法尊重擁護義務が課されているのですが、憲法改正との観点ではこの両者をどのように考えるべきなのでしょうか?

3.憲法学的には
この点、憲法の教科書はつぎのように解説しています。

「確かに、憲法自身が改正手続を定めている以上、憲法改正を主張することは(憲法尊重)尊重擁護義務に反するものではない。しかし、国務大臣が憲法の規定や精神に反する立場を明らかにし、その改正を主張・唱道することによって、憲法および法令に従って行われるべきその職務の公平性に対する信頼を疑わしめる結果となるような場合には、本条の義務違反の問題となる。」
『基本法コンメンタール憲法 第5版』446頁(畑尻剛執筆部分)
つまり、「憲法自身が憲法改正手続の規定をおいている以上、憲法改正を主張すること自体は憲法尊重尊重擁護義務に反するものではない。しかし、国務大臣が憲法の規定や精神に反する立場を明らかにし、その改正を主張・唱道することによって、憲法および法令に従って行われるべきその職務の公平性に対する信頼を疑わしめる結果となるような場合には、本条の義務違反の問題となる」というのが、この論点に対する憲法学の考え方のようです。

なお、憲法改正には「憲法改正の限界」、つまりかりに憲法改正手続きによっても許されない限界があり、憲法の基本原則つまり国民主権、基本的人権の確立、平和主義、立憲主義、憲法改正手続などを侵害する憲法改正は「憲法改正の限界」に抵触し無効であるというのが憲法学上の通説です(芦部信喜・高橋和之補訂『憲法 第7版』409頁)。そのため、国民主権、基本的人権の確立、平和主義、立憲主義や基本的人権を大きく制約するような憲法改正を大臣や国会議員が主張したり実行することは憲法96条、99条違反になると考えられます。

4.まとめ
すなわち、「憲法自身が憲法改正手続の規定をおいている以上、憲法改正を主張すること自体は憲法尊重尊重擁護義務に反するものではない。しかし、国務大臣などが憲法の規定や精神に反する立場を明らかにし、その改正を主張することによって、憲法および法令に従って行われるべきその職務の公平性に対する信頼を疑わしめる結果となるような場合には、本条の義務違反の問題となる。国民主権、基本的人権の確立、平和主義、立憲主義や基本的人権を大きく制約するような憲法改正を大臣や国会議員が主張したり実行することは憲法96条、99条違反になる」というのが、この論点に対する憲法学上の考え方になるように思われます。

■関連するブログ記事
・(続)憲法改正を大臣や国会議員などが主張することは憲法違反なのか?ー憲法99条・96条・憲法尊重擁護義務・憲法改正の限界

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