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表現の不自由展かんさい
(「表現の不自由展かんさい」Facebookより)

1.はじめに
新聞報道などによると、「表現の不自由展かんさい」の実行委員会が、会場である大阪府立労働センター「エル・おおさか」の指定管理者「エル・プロジェクト」が6月25日付で会場の利用承認を取消したことを受けて、本日6月30日、同指定管理者の利用承認取消の処分の取消および同処分の執行停止を求める取消訴訟を大阪地裁に提起したとのことです。
・表現の不自由展実行委が提訴「会場使わせないのは憲法違反」大阪|毎日新聞

自治体の公民館などの公の施設において集会や表現行為を行おうとする住民等と、それを施設の利用規約などを理由として謝絶しようとする施設との関係については、集会の自由・表現の自由の問題として裁判所で争われてきた論点ですが、判例に照らすと本事件においては会場の指定管理者側が不利な状況に思われます。以下、本事件の事案の概要と、公の施設における集会の自由に関する判例、本裁判の後について、考えてみたいと思います。

2.事案の概要
「表現の不自由展かんさい」の実行委員会は、大阪の大阪府立労働センター「エル・おおさか」で7月16日から18日まで同展を開催するために施設の利用申請を同センターを運営する指定管理者「エル・プロジェクト」に3月に行い利用承認がおりたものの、6月中旬以降、中止を求める電話や街宣車による抗議活動が相次いだため、同指定管理者は「センターの管理上の支障がある」として、6月25日に利用承認の取消の処分を行ったとのことです。

それに対して「表現の不自由展かんさい」実行委員会は6月30日に大阪地裁で、同指定管理者の利用承認の取消処分の取消を求める取消訴訟(行政事件訴訟法3条2項)を提起するとともに、同取消処分の執行停止の申立(同法25条2項)を行ったとのことです。

3.大阪地裁の裁判はどうなるか?ー泉佐野市民会館事件
(1)泉佐野市民会館事件(最高裁平成7年3月7日判決)
自治体などの公の施設における集会の自由・表現の自由(憲法21条1項)の拒否の問題について、泉佐野市民会館事件(最高裁平成7年3月7日判決)において最高裁は、施設側が住民からの集会の申請を拒否できるのは、「集会の自由の保障の重要性よりも…集会が開かれることによって生命、身体または財産が侵害され、公共の安全損なわれる危険を回避し防止する必要性が優越する場合に限られる」とし、その危険性の程度は、「明らかな差し迫った危険の発生が具体的に予見されること」と非常に厳格な判断を行っています。(ただし判決は住民側の敗訴。)

この泉佐野市民会館事件のあと、公の施設における集会の自由については上尾市福祉会館事件(最高裁平成8年3月15日判決)においても最高裁は同様の判断を示しており、これが判例の流れとなっています。(さらにプリンスホテル事件(東京高裁平成22年11月25日判決)は、自治体などの公の施設だけでなく、民間企業であるホテルの集会場についても、泉佐野市民会館事件などの考え方が当てはまることを示しています。)

(2)「表現の不自由展かんさい」に関する大阪地裁の訴訟はどうなるか?
このように、自治体などの公の施設における集会の自由に関する判例に照らすと、「表現の不自由展かんさい」に関する大阪地裁の本訴訟は、会場である大阪府立労働センター「エル・おおさか」の指定管理者「エル・プロジェクト」側が敗訴する可能性が高いように思われます。

このように、裁判所が施設における集会の自由に関する判例が施設側の施設利用の拒否を厳格に判断し、住民側の集会の自由を非常に重視しているのは理由があります。

集会の自由などの表現の自由(憲法21条1項)は、住民などの国民・個人が表現行為をすることにより自分の人格を発展させるという、個人の「自己実現の価値」だけでなく、表現活動により国民が政治的な意思決定に参画するという「自己統治の価値」(=民主主義)があるからです(芦部信喜『憲法 第7版』180頁)。

つまり、わが国は民主主義の国(憲法1条)であり、さまざまな多様な情報や意見が社会において自由に発信され流通し、また、さまざまな情報や意見を国民・個人が自由に受取り、社会のさまざまな場面で国民が自由闊達に議論することが可能な状況において、議論によりさまざまな意見が競争することにより、真理やよりよい結論に到達することができるという「思想の自由市場論」が、判例や学説が表現の自由を重視する根底にあります(野中俊彦・中村睦男・高橋和之・高見勝利『憲法1 第5版』352頁 )。

(3)会場である大阪府立労働センター「エル・おおさか」の指定管理者側が敗訴する可能性
そのため、大阪地裁に提起された本事件の取消訴訟は、施設の指定管理者側が敗訴する可能性が高いといえます。

また、施設の利用承認取消処分の執行停止の申立についても、同展の開催期間がせまっており、それを過ぎると集会や表現の機会が失われてしまうため、「処分、処分の執行又は手続の続行により生ずる重大な損害を避けるため緊急の必要があるとき」(行政事件訴訟法25条2項)に該当するとして、大阪地裁が執行停止も認める可能性もあるといえます。

4.本裁判のあとについて・近代立憲主義憲法
最高裁の判例や憲法の学説・通説にたつと、大阪地裁の本訴訟の今後の見通しは上でみたとおりになると思われます。しかし、このような結論には少なくない国民・住民が違和感を感じるのではないでしょうか。

近年、「表現の不自由展かんさい」などの「表現の不自由展」の活動を支持・応援するいわゆるリベラル派・左派の人々は、「表現の不自由展」などに関する自分達の好む表現の自由・集会の自由(例えば、昭和天皇の写真を燃やす表現や、韓国の慰安婦像の表現など)を最大限実現することを主張する一方で、保守派・右派の人々の表現の自由や集会の自由を法規制する運動を展開してきています。

具体的には、いわゆるヘイトスピーチ対策法を国会で成立させ、また川崎市、大阪市などの一部の自治体では、罰則つきのヘイトスピーチ禁止条例などが制定されています。さらに川崎市などでは、リベラル派の弁護士などが自治体に指導するなどして、公の施設において上でみた泉佐野市民会館事件の最高裁の判断枠組みよりも緩い要件で保守派・右派の集会の申請を拒否できるように自治体の公の施設の規則・基準などの要件緩和の改正を行っています。
・「本邦外出身者に対する不当な差別的言動」の解消に向けた取組|川崎市

(また、最近はネット上の批判的な言論を規制する方向で、プロバイダ責任制限法が改正されました。しかしこれも、いわゆるインフルエンサーなどの、ネット上の有名人・芸能人などのごく一部のネット上の社会的地位の高い人々だけを法的に保護し、一般の庶民の国民のネット上の表現を規制する、あるいは一般人の表現を委縮させる結果になっているように思われます。)

しかし、このようにリベラル派・左派の政治政党やマスメディア、その支持者達が、自分達の好む表現・集会の自由は認める一方で、自分達が好まない表現・集会は規制・禁止することは、日本社会における表現の自由の許容される範囲を恣意的に自分達側に有利に縮小していると言えるのではないでしょうか。これは国民の一部の人々による一種の焚書坑儒・文化大革命、あるいは言論や思想の弾圧、一部の国民による事実上の検閲なのではないでしょうか。

そのようなリベラル派・左派の主張・行動や立法活動などは、恣意的に自分達と違う意見の保守派・右派などの意見を法的に規制・禁止しており、つまり自分達と違う意見について「表現を不自由」にしているのであって、日本の表現の自由の前提である、上でみた、各人が自己の意見を自由に表明し、議論により意見を競争させることにより真理やよりよい結論に到達できるという「思想の自由市場論」矛盾しているのではないでしょうか。

このようなリベラル派・左派の表現の自由に関する態度や見解は、「国家の立法や政策などにより、国民の表現の自由などの人権を規制し、国民の人権保障を行うべきである」という、「国家権力への強い信頼感」に基づいた「国家による人権保障」「国家による自由」の考え方が根底にあるように思われます。

この「国家による人権保障」「国家による自由」は、憲法に「表現の自由、集会の自由などの人権を、自由で民主的な基本秩序を攻撃するために利用する者は、これらの人権を喪失する」(ドイツ基本法18条「基本権の喪失」明記し、民衆扇動罪などの特別刑法の法令を設けている、第二次世界大戦後に発展したドイツ、フランスなど欧州各国のポスト近代憲法(脱近代憲法)の諸国のいわゆる「闘う民主主義」の考え方に親和的です。

しかし、日本アメリカなどと並んで、ポスト近代憲法の国ではなく、伝統的な近代憲法の国です。つまり、憲法13条が「すべて国民は、個人として尊重される生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と規定するように、わが国の憲法は、人間はこの世に生まれただけで尊い存在であり、一人一人違う国民・個人のその人格や個性は最大限尊重されなければならないという「個人の尊重」「生命、自由および幸福追求に対する国民の権利」(幸福追求権)などの「国民の基本的人権の確立」を国家の目的として掲げる近代立憲主義憲法の国です。近代立憲主義とは、18世紀のフランス革命やアメリカ独立戦争がその端緒であるという歴史的経緯をみても、なにより国民の個人の尊重と基本的人権の確立と、国家権力の暴走から国民を守ることを重視します。

そして、日米などの憲法にはドイツ基本法18条のような「闘う民主主義」の条文は存在せず、「思想の自由市場論」に立脚し、表現の自由を最大限認める方向の憲法となっており、表現の自由などの基本的人権は原則として他人の人権と衝突した場合のみに制限が許されるとされています(「公共の福祉」・憲法11条、12条、22条、29条)

2014年の京都朝鮮学校事件の最高裁判決(最高裁第三小法廷平成26年12月10日判決)が示すように、ヘイトスピーチの問題のように、ある表現・集会などのある集団に対する憎悪的な表現行為が当該集団や他人の人権や権利を侵害した場合についても、裁判所は、人種差別撤廃条約を援用しつつも、表現行為が他の人間の人権と抵触した場合の解決方法と同様に、従来どおり名誉棄損、業務妨害として不法行為による損害賠償責任(民法709条)の問題として事後的な法的解決を行っています。

(なお、人種差別撤廃条約は国連における採択から約30年後の平成8年にわが国も批准しましたが、そのように批准に時間がかかった背景には、同条約4条(a)(b)が人種差別的思想の流布などの処罰を義務づける趣旨の規定であり、憲法21条が保障する表現の自由などの権利に抵触する懸念があったとされています。つまり具体的には、人種差別的表現はある意味、文明評論や政治評論などの表現の自由の核心部分である政治的表現の自由との限界を定めることが困難であり、そのような正当な言論を不当に委縮させるおそれがあるからであるとされています。

そこで、日本政府は同条約の批准にあたり、“同4条について日本国憲法21条の下における諸権利の保障と抵触しない限度において義務を履行する”という趣旨の「留保」を付けた上で批准を行っています。同4条については、日本だけでなく、アメリカ、スイス、イギリス、フランスなども同様の留保や条件をつけています(阿部康次「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約」『ジュリスト』1086号73頁)。


すなわち、日本の憲法の基本的な考え方は、社会権などの「国家による人権保障」「国家による自由」ではなく、自由権・精神的自由、「国家からの自由」を第一に重視する伝統的な近代立憲主義憲法のものであり、独仏などの欧州のポスト近代憲法(脱近代憲法)とはその基本構造が大きく異なるものです。

そのため、日本がドイツ・フランスなど欧州の憲法・法令の構造と日本の憲法・法令の構造との差異を十分に検討することなく、ドイツ・フランスなどのヘイトスピーチ法制などを無批判に安易に輸入することは、法的な矛盾や社会のゆがみなどを生み出してしまう危険があるため、慎重であるべきです(辻村みよ子『比較憲法 新版』126頁)。

現代の国家は、社会保障などの「国家による自由」「国家による人権保障」の社会権が重視される、いわゆる福祉国家・行政国家(行政国家現象)であり、新型コロナの世界的な大流行により、今後もますます国の福祉国家化が進行するものと思われます。

しかし、近代立憲主義憲法の国においては、社会権が重要であることはもちろんですが、国家権力の暴走の危険から国民を守るという価値、つまり「国家からの自由」表現の自由などの自由権(精神的自由)に関わる基本的人権が第一に重要であるはずです。近年、ドイツでポスト近代的な憲法論に対する批判的な連邦憲法裁判所の判決(BVerfG 93.266)などが現れ、ドイツなどの学界もポスト近代的な憲法論のゆき過ぎを認めつつあることは、その証拠ではないでしょうか(樋口陽一・小林節『「憲法改正」の真実』90頁)。

かりに今回の「表現の不自由展かんさい」に関する訴訟において「表現の不自由展」側が勝訴するとしても、そろそろ日本の裁判所や憲法学界、政府や自治体、国会、あるいはリベラル派・左派の人々も、ヘイトスピーチ法制やプロバイダ責任制限法などの日本の表現行為の法規制が推進されつつある状況を再検討すべき時期なのではないでしょうか。

「批判や差別されている人々がかわいそう」、「ポリティカル・コレクトネス(political correctness)」等という人権活動家、反差別主義の活動家、社会学者、フェミニズムなどの人々の感情的でポスト近代的な主張や見解に、ここ10年の日本の憲法学の主流の学者の先生方は大いに耳を傾け、そのような主張や見解を非常に重視した憲法学がここ最近、展開されてきたように思われます。政府や国会もそのような主張や見解を重視した立法や政策を推進してきました。

しかし、そろそろ憲法学の主流の学者の先生方も、ポスト近代的な流行りの反差別活動家、人権活動家やフェミニズムの活動家、社会学者などに一方的に押されるばかりでなく、伝統的な近代立憲主義や自由主義・民主主義の理念に立ち返った、オーソドックスな憲法学・法律学の立て直しを行うべきなのではないでしょうか。

■参考文献
・芦部信喜・高橋和之補訂『憲法 第7版』180頁
・野中俊彦・中村睦男・高橋和之・高見勝利『憲法Ⅰ 第5版』352頁
・辻村みよ子『比較憲法 新版』126頁
・樋口陽一・小林節『「憲法改正」の真実』90頁
・阿部康次「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約」『ジュリスト』1086号73頁

■関連する記事
・日本共産党の衆院選公約の「非実在児童ポルノ」政策は憲法的に間違っているので撤回を求める
・メルケル独首相のツイッター社等のトランプ氏追放への「苦言」を考える-表現の自由・憲法の構造
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・京都朝鮮学園事件判決とヘイトスピーチ規制立法について
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・懐風館高校の頭髪黒染め訴訟についてー校則と憲法13条・自己決定権













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アメリカ連邦議会占拠1
1.メルケル首相のツイッター社などへの「苦言」
1月11日のメディアの報道によると、ドイツのメルケル首相が、アメリカ連邦議会襲撃事件に関連し、ツイッター(Twitter)やFacebookなどのSNSがトランプ氏を永久追放としていることについて、「表現の自由はとても重要で、それを規制できるのは議会の立法だ。」としてツイッター(Twitter)社などの対応に「苦言」を呈したとのことです。これはとても考えさせる苦言です。

・トランプ氏追放は「問題」 独首相、ツイッターに苦言|時事ドットコム

一方、最近のニュースによると、グーグル・アップルだけでなく、アマゾンもクラウドサービスのAWSにおいて、トランプ氏支持者に支持されている保守系SNS「Parler(パーラー)」への締め出しを開始したそうです。さらに、ネット上の決済会社「Stripe(ストライプ)」によるトランプ派の締め出しも開始されたとのことです。事態はさながらGAFAなど巨大IT企業による"トランプ・パージ"の様相を呈しています。

・トランプ支持者集うSNS、Amazonがクラウド接続停止|日経新聞
・Stripe Stops Processing Payments for Trump Campaign Website|WSJ

もちろん、私はトランプ氏支持者達による米連邦議会襲撃というテロリズムを擁護するつもりはありません。しかし、メルケル首相の指摘があるように、問題はそう単純なものなのでしょうか?

2.表現の自由
王朝や独裁国家と異なり、民主主義国家では主権者たる国民が議会・国会の議員を通して自由闊達な議論を行えなければ国家の運営ができません。そして議員達がどのような言動をしたかをメディアなどが報道し表現することも、国民が議員や政党を支持あるいは批判する上で極めて重要です。つまり、表現の自由は、国民の自己実現にとって重要なだけでなく、民主主義にとっても非常に重要な自由(基本的人権)です。

3.憲法と民間企業
また、もともと憲法は、国家権力を縛り国民の権利(基本的人権)を守るための法(近代立憲主義の憲法)であり、ツイッター社やGAFAなどは国家の機関ではなく民間企業ですが、社会に影響を及ぼす法人・民間企業等についても、憲法の考え方・理念を民事法(日本では例えば民法90条)などの適用において間接的に及ぼすという考え方が広くとられています(間接適用説)。つまり、民間企業とはいえ、ツイッター社やGAFAなども憲法の射程外ではないのです。

*なお、トランプ氏のツイッター上のツイートと、それに対する他のユーザー・利用者のツイート(リプライ)は、いわゆる「パブリック・フォーラム」であるとして、トランプ氏が自身に批判的なユーザーの投稿をブロックする行為は違法・違憲であるとする判決が米連邦裁判所で複数出されています。

・トランプ大統領に対し三度目の「批判的なTwitterユーザーをブロックするのは違憲」との判決が下される|engadget

4.独仏と日米の憲法の構造の違い
ところで、憲法の構造・建付けからみると、独仏等の憲法が「闘う民主主義」を採用し「民主主義の敵には人権を認めない」との立場を取るのに対して、米日等の憲法はその立場はとっていません。米日などの憲法は、上でみたような、自由闊達な議論(表現)を重視する、伝統的な近代立憲主義の憲法です。憲法の構造からすれば、ドイツなどでは表現規制はやりやすく、米日ではやりにくいはずなのです。

アメリカ合衆国憲法修正1条
連邦議会は、国教を定めまたは自由な宗教活動を禁止する法律、言論または出版の自由を制限する法律、ならびに国民が平穏に集会する権利および苦痛の救済を求めて政府に請願する権利を制限する法律は、これを制定してはならない。

日本国憲法
第21条1項 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2項 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

アメリカ合衆国憲法修正1条
(アメリカ合衆国憲法修正1条)

つまり、ドイツ等はナチズムの反省に立つ「ポスト近代憲法」であり、ドイツ基本法1章18条が、"民主主義に反する表現行為等の基本権(人権)を認めない"と明記した上で民衆扇動罪等の個別の立法がある建付けですが、日米等は表現を最大限尊重する伝統的な「近代憲法」である点が大きく違うのです。

ドイツ基本法
第18条(基本権の喪失)
意見表明の自由、とくに出版の自由(第5条1項)、教授の自由(第5条3項)、集会の自由(第8条)、結社の自由(第9条)、信書、郵便および電気通信の秘密(第10条)、所有権(第14条)または庇護権(第16条a)を、自由で民主的な基本秩序を攻撃するために濫用する者は、これらの基本権を喪失する。喪失とその程度は、連邦憲法裁判所によって宣言される。

ドイツ基本法18条
(ドイツ基本法1章18条)

日本に関していえば、戦前の日本は、体制翼賛制度のもと国家による言論弾圧、表現統制・思想統制などが広く行われ、軍部の暴走を止めることができなかったとの反省から、最大限、表現の自由を認める現行憲法ができあがったとされています。

5.まとめ
このようにそれぞれの憲法の建付けやその歴史的経緯を振り返ると、「闘う民主主義」をとるドイツのメルケル首相すら警鐘を鳴らすネット上の民間企業による表現規制を、アメリカ(や日本)が安易に許してよいのだろうかとの疑問が湧きます。

仮に許すとしても、それは民主主義国家における主権者たる国民の、議会での議論を経た上での立法を根拠として行われるべきではないのか?ツイッター社やGAFA等のIT系民間企業に任せてよい問題なのか?とのメルケル首相の主張は極めて正論であるように思われます。

表現の自由とは、民主主義国家における主権者の我われ国民の重要な権利です。民間企業の経営陣の営利的・恣意的な判断や、民間会社の利用規約などに委ねてしまった場合、その濫用によって、国民・市民の表現の自由が不当に阻害されたとき、その民主制に対する打撃は重大なものとなってしまうおそれがあるからです。これは少し大きくいえば、GAFAに対する、国家のネット上の「主権」あるいは「安全保障」に関する問題といえるかもしれません。

■関連するブログ記事
・アメリカ連邦議会にトランプ氏支持者の暴徒が侵入-大統領の罷免・弾劾

■参考文献
・辻村みよ子『比較憲法 新版』120頁、125頁
・樋口陽一・小林節『「憲法改正」の真実』90頁











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