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1.阿武町4630万円誤振込事件の代理人弁護士が記者会見で無罪を主張
2022年5月に、山口県阿武町が国の新型コロナに関する臨時特別給付金4630万円を同町の24歳の男性の銀行口座に誤って振込み、男性が当該金銭をネットバンキングで複数のオンラインカジノの決済代行業者に振込んだ事件については、9月22日に男性が阿武町に解決金約340万円を支払うことで民事裁判上の和解が成立しました。

また、阿武町は男性を電子計算機使用詐欺罪で刑事告訴しているところ、10月に初公判が行われることを受けて、男性の弁護人の山田大輔弁護士が9月29日に記者会見を行い、「男性は無罪である」との訴訟方針を明らかにしたとのことです。

・4630万円誤振込・弁護士が会見で無罪主張「事実はあったが、違法ではない」|テレビ山口

本事件は4630万円もの金銭を町役場から誤振込で受け取った男性が、それを奇禍として当該金銭をオンラインカジノに使ってしまい、非常に大きな社会的非難を招きました。たしかにこの男性のふるまいは道徳的に問題であると思われますが、しかしこの男性の行為は電子計算機使用詐欺罪などの刑罰の適用が妥当といえるのでしょうか?

結論を先取りすると、本事件で電子計算機使用詐欺罪は成立しないと思われます。以下見てみたいと思います。

2.電子計算機使用詐欺罪
刑法
(電子計算機使用詐欺)
第246条の2 前条に規定するもののほか、人の事務処理に使用する電子計算機に虚偽の情報若しくは不正な指令を与えて財産権の得喪若しくは変更に係る不実の電磁的記録を作り、又は財産権の得喪若しくは変更に係る虚偽の電磁的記録を人の事務処理の用に供して、財産上不法の利益を得、又は他人にこれを得させた者は、十年以下の懲役に処する。

(1)行為
本事件が問題となる電子計算機使用罪(刑法246条の2)の前段部分は、銀行等のコンピュータに「虚偽の情報」または「不正な指令」を与えて「財産権の得喪もしくは変更に係る不実の電磁的記録」を作成し、これによって自己または第三者に財産上の利益を得せしめる行為です。

ここでいう「不実の電磁的記録」とは、銀行等の顧客元帳ファイルにおける預金残高記録などが該当するとされています。「不正な指令」とは改変されたプログラムなどを指します。

(2)「虚偽の情報」
またここでいう「虚偽の情報」とは、銀行等のコンピュータ・システムにおいて予定されている事務処理の目的に照らしその内容が真実に反する情報をいうとされています。言い換えれば、入金等の入力処理の原因となる経済的・資金的な実態を伴わないか、それに符合しない情報を指します(園田寿「誤入金4630万円を使い込み それでも罪に問うのは極めて難しい」論座・朝日新聞2022年5月26日)。例えば架空の入金データの入力等がこれに該当します。

一方、銀行等の役職員が金融機関名義で不良貸付のためにコンピュータ端末を操作して貸付先の口座へ貸付金を入金処理するなどの行為は本罪にあたりません。

なぜなら、たとえこのような行為が背任罪になりうるとしても、貸付行為自体は民事法上は有効とされる結果、電子計算機に与えられた情報も虚偽のものとはいえず、作出された電磁的記録も不実のものとはいえないからです(東京高裁平成5年6月29日・神田信金事件、西田典之・橋爪隆補訂『刑法各論第7版』235頁)。

同様に、インターネット・バンキング等を利用した架空の振替送金データの入力は「虚偽の情報」に該当し、その結果改変された銀行等の顧客元帳ファイル上の口座残高記録は「不実の電磁的記録」にあたり本罪が成立することになります。あるいはネット・バンキングの他人のID番号とパスワードを無断で利用し銀行等の顧客元帳ファイル上のデータを変化させ、自らの利用代金などの請求を免れる行為も本罪が成立します。(西田・前掲236頁)

3.本事件の検討
ここで本事件をみると、誤振込であるとはいえ、阿武町から本件の男性に4630万円は民事上有効に振込まれ、男性の銀行口座には4630万円が有効に存在します(ただし民事上の不当利得返還請求の問題が発生する(民法703条、704条)。)。

そして男性はその自らの銀行口座の4630万円の金銭に対して、ネットバンキングから複数のオンラインカジノの決済代行業者の口座に振込の入力を行っています。この男性の振込入力は原因関係として民事上有効に存在する金銭に対するものであり、また他人のIDやパスワードを入力などしているわけではなく、さらに不正なコンピュータ・プログラムをネット・バンキングのシステムに導入している等の事情もないので、2.(2)の金融機関の不良貸付の事例と同様に、電子計算機使用詐欺罪は成立しないことになると考えられます。

したがって、本事件の男性の代理人の山田弁護士の「無罪である」との訴訟方針は正しいと思われます。

4.まとめ
このように本事件では電子計算機使用詐欺罪は成立せず、男性は無罪になる可能性が高いと思われます。たしかにこの男性の行為は道徳的には問題でありますが、この問題に関しては民事上、不当利得返還請求権が阿武町には発生し、民事上解決が可能です。現に本事件は9月に裁判上の和解が成立しています。それをさらに刑法をもってこの男性を処罰するというのは、刑罰の謙抑性や「法律なくして刑罰なし」の罪刑法定主義(憲法31条、39条)の観点からも妥当でないと思われます。

本事件は報道によると、阿武町の町役場では職員がコロナの臨時特別給付金の振込の事務作業をたった一人で行っていたことがこの4630万円もの巨額の誤振込につながったとのことであり、むしろ町役場の給付金支払いの事務作業を適切に行う体制整備を怠っていた阿武町役場の幹部や花田憲彦町長などの方こそ大きな社会的責任・政治的責任を負うべきなのではないでしょうか。

とはいえ、銀行や保険などの金融機関や行政機関などにおいて誤振込、誤払いは残念ながら多く発生しているところ、そのような誤振込を受けた人間がその金銭をネットバンキングなどで使用してしまったような場合に電子計算機使用詐欺罪は成立するのかという本事件の事例は先例となる裁判例がないようであり、本事件について裁判所が司法判断を示すことは、金融機関などの実務上、非常に有益であると思われます。

■参考文献
・西田典之・橋爪隆『刑法各論 第7版』233頁
・大塚裕史・十河太郎・塩谷毅・豊田兼彦『基本刑法Ⅱ各論 第2版』263頁
・畑中龍太郎・中務嗣治郎・神田秀樹・深山卓也「振込の誤入金と預金の成立」『銀行窓口の法務対策4500講Ⅰ』957頁
・園田寿「誤入金4630万円を使い込み それでも罪に問うのは極めて難しい」論座・朝日新聞2022年5月26日



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1.はじめに
ネット上のウェブサイト(Googleの口コミ)への投稿記事を第三者が本人に「なりすまし」て行ったものであると認定し、当該ウェブサイトの管理・運営者(Google)への当該投稿記事の削除請求を認めた興味深い裁判例(大阪地裁令和2年9月18日判決)が、『判例時報』2505号(2022年3月1日号)69頁に掲載されていました。

2.事案の概要
被告Y(Google)は、Googleアカウントを有する者であれば誰でも自由に店舗、施設等についての感想や評価等の口コミを投稿できる機能(Googleの口コミ)を提供・運営している。アカウント名はアカウントを有する者(ユーザー)が自由に設定でき、本件サイトではアカウント名が口コミの投稿者として表示される。

原告Xは、本件整骨院に通院している患者であり、河野花子という名前の患者は本件記事が投稿された前後の時期においてXのみである。本件投稿は遅くとも平成30年12月13日になされた。その後、Xは、本件投稿を閲覧した近隣住民から、「本件整骨院の悪口を書き込んでいるのではないか」と言われ本件投稿を知った。Xは自宅を一歩でれば近所の住民から何を言われるかと恐れながら生活する状況に陥り精神的苦痛を受けた。

Xは平成31年2月8日に本件投稿記事についてYに対して発信者情報開示の仮処分命令申立てを行った(別件保全事件)。これに対して東京地裁は令和元年5月7日、発信者情報を仮に開示することを命じる仮処分決定を行った。しかしYは同年同月29日にXに対して「開示を命じられた発信者情報が確認できない」との回答を行った。これに対してXは別件保全事件を取り下げ、本件投稿記事の削除と損害賠償の請求をYに対して求めて提訴したのが本件訴訟である。

3.判旨
本判決は、つぎのように判示して、本件投稿記事の削除請求を認める一方で、損害賠償責任は認めなかった。

(1)争点1(人格権に基づく本件投稿記事の削除請求権が認められるか)
『氏名は、社会的にみれば、個人を他人から識別し特定する権利を有するものであるが、同時に、その個人からみれば、人が個人として尊重される基礎であり、その個人の人格の象徴であって、人格権の一内容を構成するものというべきであるから、人は、その氏名を他人に冒用されない権利を有するところ、かかる権利は、不法行為上、強固なものとして保護されると解される(最高裁判所昭和63年2月16日第三小法廷判決・民集42巻2号27頁参照)。』(略)

『以上によれば、Xは、他人に氏名を冒用されない権利を違法に侵害されたといえるから、利用規約により本件サイトに投稿された記事につき一定の削除権限を有するYに対し、人格権に基づき本件投稿記事の削除を請求できる。』

(2)争点2(Yは不法行為に基づく損害賠償責任を負うか)
『Yが、別件申立てにより、本件投稿記事の存在を認識し、Xが氏名を冒用されない権利を侵害されている可能性を認識しえたとしても、本件投稿記事がXのなりすましによるものであることをYにおいて最終的に判断し得る情報が提供されたとまでは言えないから、その時点でXが他人に氏名を冒用されて本件投稿記事が投稿されたことを認識できたとはいえない。』『Yが…本件投稿記事を削除する条理上の義務を負っていたと認めることはでき(ない)。』

4.検討
氏名を他人に冒用されない権利は人格権(憲法13条)の一つであり、この権利に基づいて侵害行為の排除請求権が認められると本判決が引用している最高裁昭和63年2月16日判決はしています。また最高裁平成18年1月20日判決は、侵害行為の差止請求も認めています。

ところで、人格権としての氏名を他人に冒用されない権利が侵害された場合に、どのような判断基準で削除請求権などを認めるかについては、裁判例は、①氏名を他人に冒用されない権利は強固な権利であるので、氏名を冒用されたことを直ちに認めて、侵害行為の排除等を認める考え方と、②プライバシーに関する事項や名誉棄損に関する事項などと同様に、比較衡量で判断する考え方(最高裁平成29年1月31日判決・判例時報2328号10頁)の二つに分かれるようです。そして本判決は①をとっています。

この点、民法の通説は、人格権を理由とする差止等について、「人格権は生命・身体とともにきわめて重大な保護法益であり、物権の場合と同様に排他性を有する権利である」として、例えば看板の撤去、図書販売の差止めなどの排除などを命じる救済が認められるとしています(潮見佳男『基本講義 債権各論Ⅱ不法行為法 第3版』216頁)。つまり民法の通説は①を採用しているようです。(なおこの差止などの請求権が表現の自由などと衝突する場合には、その調整が必要となりますが、保護法益がプライバシー権などの場合には、現在の判例・多数説はプライバシー権を軽視しすぎであると潮見教授は指摘しています(潮見・前掲)。)

なお、ネット上の「なりすまし」による投稿の問題は、Googleの口コミだけでなく、TwitterやFacebookなどのSNSや、食べログなどの飲食店の情報サイトや人材会社の転職サイトなどでも同様に発生し得る問題であると思われます。これらのSNSなどにおいても、「氏名を冒用」されるような投稿が行われた場合、裁判所に当該投稿の削除等が認められる可能性があるものと思われます。

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■参考文献
・『判例時報』2505号(2022年3月1日号)69頁
・潮見佳男『基本講義 債権各論Ⅱ不法行為法 第3版』216頁















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リヴァイアサン
1. コロナ禍で緊急事態宣言がでても国民の私権を制限できないのは憲法に緊急事態条項がないからか?
新型コロナの感染拡大が続くなか、最近、一部の論者から、「日本が欧米のようなロックダウンを実施できないのは憲法にその根拠となる緊急事態条項がないからである。だから日本も早急に憲法改正を行い、緊急事態条項を設置すべきだ」という意見が主張されているのをみかけます。例えば、菅内閣の元内閣官房参与で経済学者の高橋洋一・嘉悦大学教授は、5月のインタビューでつぎのようにコメントしています。

緊急事態宣言をして私権制限できないのは日本くらいです。」「憲法上の戒厳令や非常事態宣言などという規定がないから、私権制限ができないのです。」(「コロナ禍で痛感した「憲法改正の必要性」」2021年5月12日ニッポン放送)
・コロナ禍で痛感した「憲法改正の必要性」|ニッポン放送

しかし、結論を先取りしてしまうと、高橋教授などのこの主張は憲法や法律的に正しくありません。

2.憲法上の基本的人権の制約根拠としての「公共の福祉」
日本を含む西側自由主義諸国の18世紀以降の近代憲法は、国民の個人の尊重と基本的人権の確立を国家の目的としています(日本国憲法11条、97条)。

そのため国民の基本的人権は極めて重要なものです。とはいえ国民の基本的人権も無制限なものではありません。国民・人間は社会で生活するものであるので、ある国民の人権と他の国民の人権がぶつかりあうときに、それぞれの人権の調整が必要となります。この、ぶつかりあう人権を制限して調整するための根拠が「公共の福祉」です。

この点、国民の基本的人権が制約される根拠としての「公共の福祉」を、わが国の憲法は、基本的人権に関する条文に置いています。具体的には、憲法12条、13条、22条1項、29条2項に、人権の制約の根拠である「公共の福祉」の文言が置かれています。
日本国憲法
第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

第22条 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。
2 何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない。

第29条 財産権は、これを侵してはならない。
2 財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。
3 私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。

このように、わが国の憲法には、ある国民と別の国民との人権がぶつかりあい、矛盾・衝突することを調整するために、国民の人権(私権)を制限する根拠として「公共の福祉」が置かれています。さらに今日の憲法学の通説では、この「公共の福祉」は、憲法12条、13条、22条、29条だけでなく、すべての人権に内在していると考えられています(一元的内在制約説、最高裁41年10月26日判決など)。

そのため、コロナ対応のためにロックダウン(外出禁止令)などを実施して、国・自治体が飲食店やホテル、鉄道などの営業の自由(憲法22条1項、29条1項)を制限することや、同じく国・自治体が一般の国民の移動の自由(22条1項)などを制限するための「公共の福祉」の制度は、日本の現行憲法にすでに存在し、憲法上の問題はクリアされています。

なお、欧米などの世界の主要国も、コロナ対応に関して、自国の憲法に緊急事態条項があればそれを自動的に発動しているかというとそうではありません。憲法に緊急事態条項が存在し、かつコロナ対策に発動している国としては、イタリア、スイス、スペインなどがある一方で、憲法に緊急事態条項があるが、コロナ対策には発動せず法律で対応している国としては、アメリカ、フランス、ドイツ、韓国、中国、インドなどがあげられます。憲法に緊急事態条項の規定が存在せず、法律の規定でコロナ対応を行っている国はイギリス、カナダ、日本などがあげられています(国立国会図書館「COVID-19と緊急事態宣言・行動規制措置―各国の法制を中心に―」『調査と情報』1100号(2020年6月)より)。

したがって、「憲法に戒厳令や非常事態宣言などの規定がないから、私権制限ができない」、「憲法に緊急事態条項がないのは日本くらい」という高橋教授らの主張は正しくありません。

(なお、憲法25条2項は、「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」と規定し、「公衆衛生」を国の任務に明記し、それを受けて厚生労働省設置法3条1項、4条4号、19号などが「公衆衛生」「感染症の発生及びまん延の防止」を厚労省の任務に掲げています。そのため、公衆衛生やコロナ対策を国の任務に加える目的での憲法改正も不要です。)

3.災害対策基本法、国民保護法、警察法などの法律
そしてこのように憲法上は人権制約の問題はクリアされているのですから、あとは国会でコロナ対策のための法改正や立法などを迅速に行い、政府・自治体などはそれらの法律に基づいて行政を実施すればよいのです。

この点、例えば伊勢湾台風の災害を受けて1961年に制定された災害対策基本法は、災害時や災害のおそれがあるときは、市町村長は住民に対して「避難のための立退きを指示」することや、住民に「屋内での待避」を指示することができるとされています(法60条1項、3項)。また災害時や災害のおそれがあるときには、自治体の長は、消防機関や警察などに出動を要請し(法58条)、「犯罪の予防、交通の規制その他災害地における社会秩序の維持に関する事項」や、「緊急輸送の確保に関する事項」などを行わせることができると規定されています。

また、戦争やテロが発生した場合に備えて2004年に制定された国民保護法(武力攻撃国民保護法)や、警察法の第6章の「緊急事態の特別措置」の部分も、戦争やテロなどが発生した際に、自治体の長や警察などは、国民に避難の指示を出したり、治安維持のための活動を行うことができると規定しています(国民保護法11条1項、警察法71条1項など)。

もし「憲法に戒厳令や非常事態宣言などの規定がないから、私権制限ができない」という高橋教授らの主張が正しいのであれば、この災害時や戦争・テロなどの緊急事態の際に、国民のさまざまな人権を制限する規定が設けられている災害対策基本法、国民保護法、警察法などは憲法違反であるとして無効となってしまうのではないでしょうか?

4.感染症法、新型インフルエンザ特別措置法など
現在のコロナ対策のための緊急事態宣言などは、新型コロナに対応した新型インフルエンザ等対策特別措置法(特措法)などに基づいて実施されています。具体的には、特措法32条1項に基づき国が緊急事態宣言を発出し、それを受けて都道府県の長は、同法24条9号に基づいて民間企業や公的機関、個人などに要請を行うことができると規定されています。

しかしこの特措法24条9項の条文はつぎのようになっており、非常におおざっぱです。

新型インフルエンザ等対策特別措置法
第24条
第9項 都道府県対策本部長は、当該都道府県の区域に係る新型インフルエンザ等対策を的確かつ迅速に実施するため必要があると認めるときは、公私の団体又は個人に対し、その区域に係る新型インフルエンザ等対策の実施に関し必要な協力の要請をすることができる。
この条文には、自治体の長は、新型インフルエンザ等対策のために「公私の団体又は個人に対し」、「必要な協力の要請をすることができる」と非常にばくぜんとしたことしか規定されていません。

7月上旬には、西村大臣らが、酒類販売事業者や金融機関に対して、休業要請に応じない飲食店に酒を提供するなとか、金融機関から国・自治体の要請に従わない飲食店に対して融資をストップするなどして国・自治体の要請に従えと指導せよ、等の法治主義から乖離した無茶苦茶な要請の方針が出され、大きな社会的非難を受けて西村大臣らはこの方針をあっという間に撤回しました。

7月の西村大臣らのこの無茶苦茶な要請は、特措法などの根拠となる法律の規定が非常に漠然としていることに原因の一つがあります。つまり、法治主義や「法律による行政の原則」(憲法41条、65条など)は、主権者である国民の選挙で選ばれた国会議員により国会で法律が作成され、政府・国などの行政は法律にしたがって行政を行うことにより、行政を民主的に国民がコントロールし、もって国民の人権保障を行おうという原則です。しかし行政の行為の根拠となる法律があいまいでは、法治主義や「法律による行政の原則」は達成されません。

そのため、国会は特措法などを、コロナ対策のために国・自治体が何をすべきなのか等を個別具体的に明示するように法改正を行うべきです。そして国・自治体などは法治主義や法律による行政の原則の観点から、それらの法律を順守した行政を行うべきです。

5.まとめ
このように見てみると、日本の国・自治体のコロナ対応に必要なのは憲法改正を実施して緊急事態条項を新設することではなく、国会でコロナ対策を必要十分に実施できるように特措法や感染症法などの法律を改正したり新たな立法を行ったり、必要な予算を準備することです。

したがって、「日本の憲法には緊急事態条項などの規定がないから、私権制限ができない」「コロナ対策のために憲法改正が必要」という高橋教授らの主張は、憲法や法律的に正しくありません。

緊急事態条項とは、非常に強大な力を持つ国家権力の暴走を抑えるための憲法や法律などの制限を、災害などの緊急事態の場合に一時的にはずすものであり、国家権力の暴走を許してしまう危険性があります。憲法に緊急事態条項を新設するかどうかは、慎重に慎重な議論が必要です。

今回のコロナ禍においては、政府与党は、国民の生命・健康のためのコロナ対応ではなく、国策である東京オリンピック・パラリンピック開催を優先して暴走しました。

このことは、国民の人権保障のために国・自治体などはサービス機関として存在するという、18世紀以降の西側自由主義諸国の近代立憲主義憲法の基本理念が、日本の政府与党にはまったく根付いていないことをまざまざと示しています。

このような日本においては、憲法改正を行い緊急事態条項を設置した場合、それが政府与党によって「国家の暴走」のために利用されてしまう危険が非常に大きいのではないでしょうか。そのため、憲法改正により緊急事態条項を新設することは慎重に考えるべきと思われます。


(このブログ記事の冒頭の図は16世紀の思想家ホッブスの『リヴァイアサン』より。リヴァイアサンは旧約聖書に登場する海の怪物です。ホッブスは、国家が存在しない「自然状態」は、「万人の万人に対する闘争」の状態にあるとして、この闘争を終わらせるために市民各人の契約(社会契約)に基づく、統治のための強い権力を持つ国家(リヴァイアサン)が必要であるとしました。これに対して18世紀の思想家ルソーの『社会契約論』は、人間社会はほっておくと強者が弱者を支配する弱肉強食の社会になってしまうとし、人間各人が「一般意思」(=利己的な意思でなく、市民の共通の利益を求める意思)に基づき、市民が等しく権利・自由を享受できる民主主義の「共和国」を社会契約に基づき設立すべきであるとしました。そしてルソーは、市民はこの共和国が利己的な意思に陥り暴走しないようにチェックを怠ってはならないとしました。)

■関連する記事
・赤羽一嘉国交大臣の「内閣には臨時国会を開く権限はない」ツイートとその後の釈明ツイートがひどい件
・西村大臣の酒類販売事業者や金融機関に酒類提供を続ける飲食店との取引停止を求める方針を憲法・法律的に考えた
・自民党憲法改正草案の緊急事態条項について考える
・広島大学の進化政治学の伊藤隆太特任助教の外国人差別や優生思想のツイートがひどい件
・令和2年改正個人情報保護法ガイドラインのパブコメ結果を読んでみた(追記あり)-貸出履歴・閲覧履歴・プロファイリング・内閣府の意見
・欧州の情報自己決定権と日米の自己情報コントロール権
・コロナ下のテレワーク等におけるPCなどを利用した従業員のモニタリング・監視を考えた(追記あり)-個人情報・プライバシー・労働法・GDPR・プロファイリング

■参考文献
・芦部信喜・高橋和之補訂『憲法 第7版』99頁
・野中俊彦・中村睦男・高橋和之・高見勝利『憲法Ⅰ 第5版』256頁
・樋口陽一・小林節『「憲法改正」の真実』101頁
・国立国会図書館「COVID-19と緊急事態宣言・行動規制措置―各国の法制を中心に―」『調査と情報』1100号(2020年6月)















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西村大臣金融機関
(ABEMAより)

産経新聞などの報道によると、西村康稔大臣は、7月8日、新型コロナウイルスの基本的対処方針分科会で、酒類提供を続ける飲食店との取引停止酒類販売事業者に要請する意向を明らかにしたとのことです。
・政府、酒類提供店との取引停止を要請 販売事業者に|産経新聞

また、日経新聞の報道によると、西村大臣は、同日、休業要請拒否をしている店舗などの情報を金融機関に情報提供する方針も明らかにしたとのことです。
・休業要請拒否店、金融機関に情報提供 経財相|日経新聞

さらに、同日、加藤官房長官は記者会見で、東京オリンピックについて「国民の協力」を求めたとのことです。
・加藤官房長官、緊急事態宣言下の東京五輪「成功のためには国民の協力も必要」|ABEMA TIMES

加藤官房長官の発言は、まるで戦時中の「一億総火の玉」などの軍国主義・全体主義の日本政府・軍部の主張のようです。

また、とくに金融機関に対して、西村大臣は、「金融機関は飲食店などと日常的に取引があるから、国・自治体に従うよう指導してほしい」という意向のようですが、それはつまり、銀行などの金融機関に対して、飲食店などに「国・自治体に従わないと融資をストップするぞ」等と脅迫・強要をすることを要求しているわけですが、そのようなヤクザ暴力団のような真似を政府がやるよう命じていいのでしょうか? 日本はこれでも一応、法治国家のはずですが。

西村大臣は中国や北朝鮮、あるいはナチス時代のドイツのような全体主義・国家主義の国の大臣にでもなったつもりなのでしょうか?

しかし、西村大臣の酒類販売事業者や金融機関への方針は、今後、飲食店等から国が取消訴訟であるとか、国賠法上の損害賠償請求などが裁判所に提起されたら国は負けてしまうおそれがあるのではないでしょうか?

国のコロナに対する緊急事態宣言や、それを受けた自治体の企業や住民・国民などに対する指示や要請などは、新型インフルエンザ等対策特別措置法(特措法)に基づいています。つまり、特措法32条に基づき国は緊急事態宣言を発出し、特措法24条9項に基づき自治体は企業や住民・国民などに対する具体的な指示や要請などを出せるとされています。しかし、特措法24条9号の条文はつぎのようになっています。

新型インフルエンザ等対策特別措置法
(都道府県対策本部長の権限)
第24条
9項 都道府県対策本部長は、当該都道府県の区域に係る新型インフルエンザ等対策を的確かつ迅速に実施するため必要があると認めるときは、公私の団体又は個人に対し、その区域に係る新型インフルエンザ等対策の実施に関し必要な協力の要請をすることができる。

すなわち、国の緊急事態宣言を受けた都道府県は、コロナ対策の実施に関し「必要な協力の要請」を、「公私の団体または個人」に対して行うことができるとされているだけです。

このような法律の条文からは、例えば自治体が飲食店やホテル、百貨店などに対して休業や酒類の提供の停止などを要請することは読み取れるとしても、自治体が飲食店等に酒類の提供の停止を求めることに対して、さらに酒類販売事業者や金融機関などに対してまるで、あるいは戦時中の陰湿な「隣組」の相互監視の奨励のような「必要な協力の要請」を行うことができると読み取ることは、通常の判断能力を有する一般人の理解(最高裁昭和50年9月10日判決・徳島市公安条例事件)からはさすがにちょっと無理なのではないでしょうか?

政府・自治体の行政は、国民が国会を通して行政を民主的にコントロールするために、「法律による行政の原則」適正手続きの原則(憲法31条)が要求されますが、特措法24条9項の条文自体が漠然としており、都道府県などに対して実施できることを白地委任に近い形で認めてしてしまっています。

そしてさらに、今回の西村大臣の金融機関や酒類販売事業者への要請は、この白地委任的な特措法24条9項をさらに幅広に解釈し、飲食店など以外の事業者に対しても、酒を販売するな、融資を停止して飲食店に国・自治体に従うよう指導しろなどと、戦時中の隣組のような相互監視や密告を推奨するかのような「必要な協力の要請」を行うわけですが、これはあまりにも法律の解釈や適用があまりにも大雑把であり、適正手続きの原則法律による行政の原則(憲法31条)に照らして違法・違憲なのではないでしょうか。

しかも、相互監視や密告のようなことを国が国民や企業に法令に基づいて命令したり奨励することは、中国のような国家主義・全体主義国家ならともかく、個人の尊重基本的人権の確立という目的のために国・自治体などの統治機構が手段として存在する(憲法11条、97条)という自由主義・民主主義の国である日本では、この憲法が定める国家の自由主義・民主主義という基本構造そのものに抵触していると思われます。憲法99条は、国務大臣や国会議員、公務員などに憲法尊重擁護義務を課していますが、西村大臣の主張はこの憲法尊重擁護義務に反していると思われます。

加えて、たしかに銀行・保険などの金融機関は、銀行法保険業法などの監督業法(監督法)により、金融庁の監督下にありますが、しかしこれは、国が頭で銀行、保険会社など金融機関が手足の関係にあるというわけではまったくありません。

西村大臣などが「銀行は融資を盾に飲食店に国・自治体に従えと命令しろ」「国に逆らっている飲食店などに対しては融資をストップし資金を引き揚げろ」等と命令し、銀行や保険会社などの金融機関がそれに手足のように従う関係ではありません。中国などの社会主義国家とは違い、日本では、国と民間企業とは別の法人格なのですから。銀行や保険会社は警察署やハローワークなどの国の出先機関とはまったく違います。

それに、銀行法や保険業法などの監督法も、一言でいえば、「顧客である個人・法人に迷惑をかけないように業務を行え」「顧客を公平・中立に公正に扱うこと」「金融機関が倒産したら多くの顧客に迷惑をかけるのだから、倒産しないように健全な会社運営を行え」等などの事柄が規定されているのであって(例えば保険業法300条や100条の2など)、「銀行、保険会社から融資などを条件に、取引先の企業などに対して国に従うよう指導・助言する」などの権限は銀行法・保険業法などの監督法には規定されていません。

それにもし銀行・保険会社などがそのような「国へ従え」という指導・助言などの行為を行ったら、逆に「融資をする金融機関としての優越的な地位を濫用し、取引先・顧客に対して不当な要求をしている」として、銀行法、保険業法などに基づき金融庁や財務局などからの行政指導・行政処分の対象になるであるとか、最悪、公正取引委員会独禁法に基づき銀行・保険会社などに行政指導・行政処分などを実施する展開になってしまうような気がします。

このような社会の仕組みは、社会生活を送っている高校生や大学生、若手の社会人などであればごく自然に身についている社会常識・一般常識であると思うのですが、西村大臣加藤官房長官など政府の幹部達は、このような社会常識が欠けたまま、政府の運営を行っているのでしょうか?非常に疑問です。

また、国などの行政機関の行為に関する行政訴訟では、行政庁の裁量権の逸脱・濫用があったかどうかが争点となることが多いわけですが、コロナの感染拡大を防ぐ目的で、国・自治体が飲食店などに対して酒の顧客への提供の禁止を命じることは、仮に目的は正当と評価されるとしても、規制の手段として社会的相当性があるといえるのでしょうか。

スーパーやコンビニ、自動販売機などでは酒・アルコールは普通に販売されているのに、飲食店だけ全面一律に酒の提供を禁止するというのは、飲食店営業の自由(憲法22条、29条)に対して、狙い撃ち的であり平等原則に反し、比例原則にも反しているように思われます。つまり、国・自治体が飲食店だけ全面一律に酒の提供を禁止するというのは、行政の裁量権の逸脱濫用があるとされる可能性があるのではないでしょうか。

また、そもそも国や東京都は、コロナの感染拡大に最も悪影響であろう東京オリンピック・パラリンピックについては開催を強行する方針です。6月下旬から、コロナワクチンの不足により、職域接種や自治体の接種が中断や予約のキャンセル、新規予約の停止などにより、国民の不安が高まっているにも関わらずです。

東京オリンピックの開催を強行して、「国民をコロナの感染拡大から守る」という国の公衆衛生上の任務(厚労省設置法3条1項、4条4号、19号、憲法25条など)を国・東京都などが事実上放棄しているのに、その国や東京都などが民間企業の飲食店に対しては「コロナ感染拡大防止のため」と酒の提供を規制するのは大きな矛盾であり、信義則禁反言の原則などの法律上の一般原則に反しており、やはり国・自治体の飲食店に対する規制は、行政の裁量権の逸脱濫用となるのではないでしょうか。

さらに、7月8日に西村大臣が公表した、酒類販売事業者に国の要請を守らない飲食店との取引停止を命じることや、金融機関に対してこれも国の要請を守らない飲食店に融資などを行わないように命じることは、あまりにも幅広に、飲食店以外の他業界に対しても営業の自由に対して規制を行うものですが、これはあまりにも幅広で、あいまい漠然としたものであり、国が「なんとなく有効そうだから」となんとなく民間企業の酒類販売事業者や銀行などの金融機関の営業の自由などを規制するものであって、これは手段としてあまりにも不適正であり、つまり行政の裁量権の逸脱濫用があると裁判所に評価される可能性が高いのではないでしょうか。

憲法から考えても、二重の基準論であると、コロナ対策は公衆衛生の目的ですので、警察目的・消極目的なので、厳格な審査基準によることになるわけですが、上でみたように、飲食店の営業の自由そのものに対する酒提供規制も厳格な審査基準をクリアできているか疑問ですし、さらに、酒類販売事業者や金融機関の営業の自由に対する規制は、あまりにも幅広漠然としたものであって、厳格な審査基準をクリアできず、国・自治体の酒類販売事業者や金融機関に対する規制は違法・違憲と裁判所に判断される可能性があるのではないでしょうか。

また、最近有力に主張されている三段階審査論からも、酒類販売事業者や金融機関などへの取引禁止との営業の自由の規制は、これもあまりにも幅広でばくぜんとしたものなので、比例原則などの観点からアウトであり、違法・違憲と裁判所に評価される可能性があるのではないでしょうか。

さらに、このように西村大臣ら国・自治体の言動がここまで法的にぐだぐだであると、それを受けた酒類販売事業者や金融機関がそれに仮に素直に従った場合、逆に酒類販売事業者や銀行・金融機関などは、飲食店などから損害賠償責任を追及されるリスクや、株主総会などで不当あるいは違法な行為であると株主から追及されるリスクがあるのではないでしょうか。

加えて、最近の世論調査でも、国民の5割から8割は東京オリンピックに反対であり、オリンピック開催を強行しながら飲食店の営業の自由を大きく規制している国・東京都などに無批判に従うことは、酒類販売事業者や銀行・金融機関などにとって、国民やマスメディアからの批判不買運動などの風評リスク、レピュテーション・リスクなどが発生してしまうのでしょうか。しかも酒類販売事業者や金融機関などにこうした風評リスクなどが発生しても、国・自治体がその尻ぬぐいをすることはおそらくないでしょう。

このように、国の酒類販売事業者や金融機関などへの国に従わない飲食店への取引停止などの要請は、法的にいろいろと無理筋であると思われます。

そもそも論として、国や東京都などは、国民主権の国家として、国民の生命・健康をコロナから守るために、日本のコロナの感染拡大に一番悪影響であると思われる東京オリンピックを中止すべきであると思われます。国が経済政策などによる金銭でコロナによる国民・法人の損害などを事後的に回復することはできても、コロナで亡くなった国民の命を金銭でよみがえらせたり、失われた国民の健康を金銭で回復させることをはできないのですから。

■関連する記事
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香川県ネット・ゲーム規制条例に関する訴訟の第3回目の口頭弁論が6月15日に高松地裁で行われたとのことです。

■関連記事
・香川県ネット・ゲーム依存症対策条例素案を法的に考えた-自己決定権・条例の限界・憲法94条・ゲーム規制条例

ところで、この第3回目の口頭弁論の毎日新聞の記事における、原告の住民側と被告の香川県との主張の争点に関する図がネット上で話題となっています。つまり、香川県側は何と、「幸福追求権は基本的人権ではない」と主張しているとのことです。
・ゲーム条例訴訟 「依存症は予防が必要」 原告主張に県反論 地裁口答弁論 /香川|毎日新聞

毎日新聞香川県ゲーム規制条例訴訟の図
(毎日新聞より)

この点、弁護士の足立昌聰先生(@MasatoshiAdachi)が、この訴訟の原告である、香川県の大学生のわたるさん(@n1U5E6Gw119ZjGI)経由で原告代理人の作花知志弁護士に照会したところ、わたるさんより「この毎日新聞の要約であってます。被告側第一準備書面82項に書いてあります。」との回答がTwitterであったとのことです。これには非常に驚いてしまいました。香川県や香川県側の弁護士は憲法13条の条文をみたことがないのでしょうか?

わたるさんのツイート
(わたる氏のTwitterより)
https://twitter.com/n1U5E6Gw119ZjGI/status/1405413264364687363


そもそも日本の憲法13条の条文はつぎのようになっています。

日本国憲法

第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
憲法13条の条文

この憲法13条の「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」「幸福追求権」です。

わが国の憲法は、14条以下に詳細な人権規定を置いていますが、これは歴史的に国家権力により侵害されることの多かった重要な権利・自由を列挙したものであって、すべての人権を網羅的に掲げるものではないとされています。

そして、社会の変化に伴い、人権として保護に値すると考えられるものは、「新しい人権」として憲法上保障される人権の一つであると考えられるようになっています。そしてこの「新しい人権」の根拠となる条文が憲法13条の幸福追求権です。

すなわち、幸福追求権とは、憲法に個別・具体的に列挙されていない「新しい人権」の根拠となる一般的かつ包括的な権利であり、この幸福追求権で基礎づけられる個々の「新しい人権」は、裁判上の救済を受けることができる具体的権利であると憲法の通説は解しています(芦部信喜・高橋和之補訂『憲法 第7版』120頁)

この憲法13条の幸福追求権により基礎づけられる「新しい人権」について、裁判例や学説が認める具体例は、プライバシー権や肖像権(東京地裁昭和39年9月28日判決・「宴のあと」事件、最高裁昭和44年12月24日・京都府学連事件など)、自らの家族のあり方や身じまい・身だしなみ等や自らの医療に関する自己決定権(最高裁平成12年2月29日・輸血拒否事件)などがあります。

また、個人の趣味・嗜好に関するものとしては、喫煙をする自由酒を造る自由を憲法13条の幸福追求権から認めた裁判例が存在します( 高松高裁昭和45年9月16日・監獄未決拘禁者喫煙訴訟、最高裁平成元年12月24日・どぶろく裁判事件)。

喫煙権やどぶろくなどのような酒を造る権利・自由すら幸福追求権(憲法13条)から裁判例・学説上、「新しい人権」として認められているのに、スマホやネット・ゲームをすることについて、「人権でない」という香川県側の弁護士の主張は法的に正しくないのではないでしょうか?

このように幸福追求権や「新しい人権」に関する裁判例や学説をみてみると、「幸福追求権は人権ではない」という、香川県および香川県側の弁護士の主張はさすがにちょっと法律論として無理があると思われます。

裁判における攻撃・防御のやり方、つまり裁判上の主張やそれに対する反論のやり方として、「「スマホやネット・ゲームをする権利は幸福追及権(憲法13条)から導き出される「新しい人権 」である余地があるとしても、いまだ憲法上保障される具体的な人権とはいえない」という主張・反論ならありだと思います。

しかし、「幸福追求権は基本的人権ではない」という主張はいろいろと端折りすぎであるというか、香川県のゲーム規制条例の代理人となっている弁護士の方は、本当に司法試験に合格しているのでしょうか?そのあたりからして心配になってきてしまいます。(あるいは「新しい人権」が憲法の教科書に載る前の、1960年代、70年代より前に司法試験に合格した弁護士の先生なのでしょうか・・・?)

(なお、西側の自由主義・民主主義諸国の「近代」は、18世紀のフランス革命やアメリカ独立戦争から始まったものですが、1776年のアメリカ独立宣言も国民の「生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利」を明記しており、日本の憲法もこの西側の近代立憲主義憲法の一つです。そのため、「幸福追求権は基本的人権ではない」という主張はやはりちょっと無理ではないでしょうか。)

そもそも、スマホやPCにより、ネット上に情報を発信し情報を受け取ることは、表現の自由(憲法21条1項)の保障の対象です。また、ゲームをする権利も上でみたように幸福追求権(13条)により保障される権利であると思われます。この点、日本も批准している「子どもの権利条約」(児童の権利条約)13条1項は、「あらゆる種類の情報及び考えを求め、受け及び伝える自由」として、表現の自由・情報の授受の自由を子どもは有していることを規定しています(荒牧重人『新基本法コンメンタール教育関係法』408頁)。

また子ども本人が、一日どのくらいスマホやゲームなどをするかどうか等は、これもライフスタイルに関する自己決定権(13条)に含まれるといえるのではないでしょうか。さらに、には子どもを教育したりしつけたりする権利としての自己決定権教育権があります(13条、26条)。香川県ゲーム条例はこれらの子どもおよび親の人権を侵害しているように思われます。

さらに、この「ゲームをする権利」「スマホやネットをする権利」や子供などの自己決定権に対して、例えば酒やタバコを未成年者に対して法律で禁止するなど、国などが子どもの心身の健全な成長のため必要最低限の制約を法律等で課すことは、「限定的なパターナリスティックな制約」(パターナリズム)として認められるものですが、香川県ゲーム規制条例のように「ゲームは1日1時間」との制限は、許容される必要最低限の限度を大きく超えており、やはり違法であると思われます(高橋和之『立憲主義と日本国憲法 第4版』122頁)。

(さらに最近のいわゆるヘイトスピーチに関する訴訟においては、裁判所はもともとは刑事手続きに関する憲法35条の「住居の不可侵」から、「住居における平穏な生活」の権利を導きだし、この権利に対する侵害を認めており、香川県ゲーム条例の公権力による家庭への介入は、この「住居の不可侵」(憲法35条)をも侵害しているのではないでしょうか(横浜地裁平成28年6月2日判決)。)

このように幸福追求権や「新しい人権」に関する裁判例や学説をみてみると、「幸福追求権は人権ではない」という、香川県および香川県側の弁護士の主張はさまざまな面で法的に正しくないといえます。

憲法や法律学、医学・科学、教育などに関する誤った知識や不正確な知識に基づいて、香川県の偉い人々がゲーム規制条例などの条例の制定や行政を行っていることは、国民・住民にとっては恐ろしいものがあります。香川県は、憲法・法令や医学・科学、教育などに関して正しい知識や理解に基づいて条例制定や行政を実施すべきです。

■参考文献
・芦部信喜・高橋和之補訂『憲法 第7版』120頁
・野中俊彦・中村睦男・高橋和之・高見勝利『憲法Ⅰ 第5版』270頁
・高橋和之『立憲主義と日本国憲法 第4版』122頁
・荒牧重人など『新基本法コンメンタール教育関係法』408頁

■関連する記事
・香川県ネット・ゲーム依存症対策条例素案を法的に考えた-自己決定権・条例の限界・憲法94条・ゲーム規制条例
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