なか2656のblog

とある会社の社員が、法律などをできるだけわかりやすく書いたブログです

タグ:立憲主義

法務省1
法務省が最近、「Myじんけん宣言」という政策(?)を実施しているようです。
・Myじんけん宣言|法務省

この「Myじんけん宣言」ページの説明を読むと、つぎのようになっています。

「人権は、誰にとっても身近で大切なものです。「人権」を難しく考えずに、「Myじんけん宣言」をして、誰もが人権を尊重し合う社会を、一緒に実現していきましょう。」

「「人権」を難しく考えずに」という、まるで怪しい金融商品の薄っぺらい営業トークのような言い回しがいきなり気になりますが、とにかくこの法務省の「Myじんけん宣言」とは、法人・団体・個人が「難しいことを考えずに」、「自らが取り組む人権課題を宣言」するもののようです。

ところで、この「Myじんけん宣言」ページの法人向けのページをみると、「宣言の内容は自由ですが、世界人権宣言や、「ビジネスと人権に関する国内行動計画」を参考に、宣言を行ってください。」と説明がされており、なぜか日本国憲法については言及されていないことが謎です。

法務省2
そして、この法人向けページの下のほうには世界人権宣言、「ビジネスと人権に関する国内行動計画」、「心のバリアフリー」の3つのページへのリンクが貼られていますが、ここにも日本国憲法へのリンクが貼られていません。法務省としては、「Myじんけん宣言」政策において、日本の法人・団体・個人に日本の最高法規たる日本国憲法の存在を何とか忘れてほしいのでしょうか?

法務省3

さらに、「Myじんけん宣言」ページをみると、上川陽子法務大臣のつぎの「Myじんけん宣言」も掲載されています。

「誰もが人権を尊重し合い、SDGsが掲げる「誰一人取り残さない」社会を実現するためには、 一人一人が人権尊重の意識を持ち、行動する必要があります。」

「多様性を認め、包摂性のある「誰一人取り残さない社会」を目指し、力を合わせて取り組んでまいりましょう。法務大臣 上川陽子」

法務省4
法務省5

この上川大臣の「Myじんけん宣言」も、人権宣言をするはずなのに、日本国憲法は登場せず、そのかわりに「SDGsの掲げる「誰一人取り残さない」社会の実現」というまるで経産省、金融庁、デジタル庁かのような言い回しが登場しています。

法務省が「Myじんけん宣言」政策にあたり、国民の基本的人権を定めた日本国憲法を無視して、SDGsや世界人権宣言、「ビジネスと人権に関する国内行動計画」などを全面に押し出しているのは何故なのでしょうか。

フランス革命・アメリカ独立戦争などの18世紀以降の西側自由主義諸国の「近代」における近代憲法は、国民の基本的人権の条項、国家(統治機構)のしくみに関する条項、そして「国家権力を憲法・法律によって歯止めをかけることにより国民の人権や権利利益を守る」という立憲主義の考え方が取り入れられていることに特色があります。わが国の日本国憲法もこの近代憲法の一つです。

しかし、法務省や政府与党は、このような憲法の基本的人権や立憲主義などの「難しいこと」を国民・法人に忘れてもらって、SDGsなどの経済政策の一環として、ふんわりとした耳触りの良い「じんけん」を、「人間はお互いゆずりあって幸せに生きましょう」的な、マナー道徳的なものにすり替えて日本社会に普及させようとしているのではないでしょうか。

繰り返しになりますが、日本の現行憲法を含む西側自由主義諸国の近代憲法(あるいはポスト近代憲法)は、「国家権力の暴走を法で防止し、もって国民の権利利益を守る」という立憲主義を原則としています。

つまり近代憲法における基本的人権とは、例えば表現の自由などの精神的自由がそうであるように、まずは国家権力の検閲などの規制により国民の表現の自由・権利が違法・不当に制限されないこと、つまり「国家からの自由」が最も重要です。そして、生存権、教育を受ける権利などの社会権も、国家により国民の社会権がきちんと守られることが重要です。

つまり憲法とは「国家」を名宛人とした法であり、国家に国民の人権を守れと命令する法です。日本国憲法99条は、大臣、国会議員などの公務員に対して憲法尊重擁護義務を課していますが、国民に対してはこの義務を課していないことは、端的にこのことを表しています。
日本国憲法
第99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

にもかかわらず、法務省の「Myじんけん宣言」は、政府・国会・自治体などが守るべき人権の宣言ではなく、個人・法人に対して「自らが取り組むべき人権の課題」を宣言させる仕組みとなっているのは、国家が国民の人権を守るべきところを、人権の問題を国民同士の問題にすり替えており、これは近代憲法や立憲主義、基本的人権などの基本的な理解を完全に間違っています。

つまり、法務省など政府は、このような国民の憲法や基本的人権の理解を間違った方向にミスリードする「Myじんけん宣言」政策を実施するのではなく、まずは中央官庁が、例えば法務省ならば、「法務省は憲法や法律を遵守し、入管行政や人権擁護行政において、国民や外国人の生命・身体の安全などの基本的人権を守ることを誓います」等と「自省の人権宣言」を制定し公表すべきではないでしょうか。

最近の法務省は入管行政において、収監している外国人の人々を非人道的に扱い、死者も出ていることが国内外からの大きな社会的批判を招いています。上川大臣をはじめとする法務省の役職員達は、「Myじんけん宣言」の前に、まずは日本国憲法の初歩を勉強するべきなのではないでしょうか。

なお最後に、上川大臣の「「多様性を認め、包摂性のある「誰一人取り残さない社会」を目指し、力を合わせて取り組んでまいりましょう。」との「Myじんけん宣言」は、国家が国民の人権を守るのではなく、人権の問題を国民同士の問題にすり替えていることが大問題であるだけでなく、「「誰一人取り残さない社会」へ力を合わせて取り組んでいきましょう」と、日本をはじめとする西側自由主義諸国の近代憲法の原則の一つである「個人主義」でなく、まるで「国家の基礎単位は家族である」とする2012年に公表された自民党憲法改正草案のような集団主義・全体主義・国家主義のような国家観を前提にしているようなことも大いに気になるところです。

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西村大臣金融機関
(ABEMAより)
7月8日、国・自治体の要請に従わず酒類の提供などを続けている飲食店などについて、西村康稔大臣らが銀行などの金融機関に対して「国に従うよう金融機関から飲食店に指導することを要請」し、また、酒類販売事業者に対して「国に従わない飲食店と取引停止をするよう要請」したことが、根拠となる法令が不明である上に、まるで暴力団のようなやり方であり、中国あるいは戦前の日本政府のような国家主義・全体主義的なものであると大炎上中です。

■前回の記事
・西村大臣の酒類販売事業者や金融機関に酒類提供を続ける飲食店との取引停止を求める方針を憲法・法律的に考えた

社会からの強い批判を受けて、西村大臣は7月9日には、金融機関に対する要請を撤回しました。しかし、国税庁から酒類販売事業者への要請は、書面による通達で実施されました。

これに対して、7月12日には、酒類卸販売事業者の方々が西村大臣や与党に面会して要請を撤回するよう申し入れを行ったそうです。

西村大臣の金融機関や酒類販売事業者への要請は、新型インフルエンザ等対策特別措置法(特措法)の32条や24条9号などによるものではありますが、前回のブログ記事でみてみたように、特措法の条文は個別・具体的な規定をおいていないので、西村大臣の金融機関・酒類販売事業者への要請は、あくまでも「お願い」レベルのもの、つまり、行政法上の「行政指導」(行政手続法2条6号、32条)であると考えられます。

この国・自治体などの行政庁による行政指導の限界については、行政法(国賠法)上の有名な判例があります。

つまり、事業者などが国・自治体などの行政庁に対して、「もはや行政指導に従うことはできないと真摯かつ明確表明」したときは、原則としてそれ以後の行政指導は国家賠償法上、違法となるというものです(最高裁昭和60年7月16日判決、櫻井敬子・橋本博之『行政法 第6版』139頁)。

今回、酒類卸販売事業者の方々が12日に西村大臣らに飲食店との取引停止の要請を撤回するよう申し入れを行ったのですから、もしその後も西村大臣ら政府が、酒類販売事業者などに対して、国などに従わない飲食店と取引停止をするよう要請する行政指導を行った場合、それは国家賠償法上、違法となり、西村大臣ら国側は酒類販売事業者などに対して損害賠償責任を負うことになります(国賠法1条1項)。

なお、行政手続法は、行政指導は「いやしくも当該行政機関の任務又は所掌事務の範囲逸脱してはならない」こと(32条)行政指導はあくまでも相手方の「任意の協力」により実現ものであること(32条)許認可に係わる行政指導は行政庁が「許認可の権限があることを殊更に示して協力を強制してはならない」等と明記しています(34条)。

この点、今回の国税庁からの酒類販売事業者に対する通達による行政指導は、国税庁にはコロナ対策に関する職掌事務の権限はないことから、国税庁の権限を逸脱しており行政手続法上違法ですし、また、国税庁には酒類販売に関する許認可の権限があるところ、その許認可権限をことさらに示して酒類販売事業者に対して協力を強制していることも違法であるといえます。

このように、西村大臣ら政府の酒類販売事業者や金融機関に対する要請は行政手続法からみても二重三重に違法であり、また昭和60年の判例に照らすと、今後も西村大臣らが同様の要請・行政指導を酒類販売事業者などに対して行うと、それは国家賠償法上違法となります。

そもそも今回の西村大臣らの金融機関や酒類販売事業者などへの要請は、法律の根拠が明確でなく、しかも恫喝で民間企業や国民に国に従うよう求めるやり方は、まるで中国や戦前の日本政府・軍部の国家主義・全体主義的なものであり、戦後の現在の自由で民主主義国家である日本の政治体制と相いれないものです。一言でいえば「国家権力の暴走から国民の自由や人権を守る」という近代立憲主義憲法の精神そのものに反しています。

西村大臣や菅首相らは、このような無理筋な民間企業・国民への要請は止めるべきです。また、政府与党はコロナ感染拡大の第5波が日本を襲いつつあるにもかかわらず、コロナワクチンの供給不足などを放置したまま東京オリンピック・パラリンピックの開催を強行しようとしています。

しかし日本は西村大臣や菅首相らが主権者なのではなく、国民が主権者の民主主義国家なのですから、政府与党は主権者たる国民や企業をコロナの感染拡大から守ることに全力を尽くすべきであり、コロナの感染拡大を悪化させる東京オリンピック中止すべきです。

■追記(7月13日19時40分)
新聞報道などによると、7月13日、政府与党は、酒類販売事業者に対する酒類提供飲食店との取引停止要請を撤回することを決定したとのことです。

・酒提供の飲食店への酒販売停止要請 政府が撤回する方針固める|NHK

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表現の不自由展かんさい
(「表現の不自由展かんさい」Facebookより)

1.はじめに
新聞報道などによると、「表現の不自由展かんさい」の実行委員会が、会場である大阪府立労働センター「エル・おおさか」の指定管理者「エル・プロジェクト」が6月25日付で会場の利用承認を取消したことを受けて、本日6月30日、同指定管理者の利用承認取消の処分の取消および同処分の執行停止を求める取消訴訟を大阪地裁に提起したとのことです。
・表現の不自由展実行委が提訴「会場使わせないのは憲法違反」大阪|毎日新聞

自治体の公民館などの公の施設において集会や表現行為を行おうとする住民等と、それを施設の利用規約などを理由として謝絶しようとする施設との関係については、集会の自由・表現の自由の問題として裁判所で争われてきた論点ですが、判例に照らすと本事件においては会場の指定管理者側が不利な状況に思われます。以下、本事件の事案の概要と、公の施設における集会の自由に関する判例、本裁判の後について、考えてみたいと思います。

2.事案の概要
「表現の不自由展かんさい」の実行委員会は、大阪の大阪府立労働センター「エル・おおさか」で7月16日から18日まで同展を開催するために施設の利用申請を同センターを運営する指定管理者「エル・プロジェクト」に3月に行い利用承認がおりたものの、6月中旬以降、中止を求める電話や街宣車による抗議活動が相次いだため、同指定管理者は「センターの管理上の支障がある」として、6月25日に利用承認の取消の処分を行ったとのことです。

それに対して「表現の不自由展かんさい」実行委員会は6月30日に大阪地裁で、同指定管理者の利用承認の取消処分の取消を求める取消訴訟(行政事件訴訟法3条2項)を提起するとともに、同取消処分の執行停止の申立(同法25条2項)を行ったとのことです。

3.大阪地裁の裁判はどうなるか?ー泉佐野市民会館事件
(1)泉佐野市民会館事件(最高裁平成7年3月7日判決)
自治体などの公の施設における集会の自由・表現の自由(憲法21条1項)の拒否の問題について、泉佐野市民会館事件(最高裁平成7年3月7日判決)において最高裁は、施設側が住民からの集会の申請を拒否できるのは、「集会の自由の保障の重要性よりも…集会が開かれることによって生命、身体または財産が侵害され、公共の安全損なわれる危険を回避し防止する必要性が優越する場合に限られる」とし、その危険性の程度は、「明らかな差し迫った危険の発生が具体的に予見されること」と非常に厳格な判断を行っています。(ただし判決は住民側の敗訴。)

この泉佐野市民会館事件のあと、公の施設における集会の自由については上尾市福祉会館事件(最高裁平成8年3月15日判決)においても最高裁は同様の判断を示しており、これが判例の流れとなっています。(さらにプリンスホテル事件(東京高裁平成22年11月25日判決)は、自治体などの公の施設だけでなく、民間企業であるホテルの集会場についても、泉佐野市民会館事件などの考え方が当てはまることを示しています。)

(2)「表現の不自由展かんさい」に関する大阪地裁の訴訟はどうなるか?
このように、自治体などの公の施設における集会の自由に関する判例に照らすと、「表現の不自由展かんさい」に関する大阪地裁の本訴訟は、会場である大阪府立労働センター「エル・おおさか」の指定管理者「エル・プロジェクト」側が敗訴する可能性が高いように思われます。

このように、裁判所が施設における集会の自由に関する判例が施設側の施設利用の拒否を厳格に判断し、住民側の集会の自由を非常に重視しているのは理由があります。

集会の自由などの表現の自由(憲法21条1項)は、住民などの国民・個人が表現行為をすることにより自分の人格を発展させるという、個人の「自己実現の価値」だけでなく、表現活動により国民が政治的な意思決定に参画するという「自己統治の価値」(=民主主義)があるからです(芦部信喜『憲法 第7版』180頁)。

つまり、わが国は民主主義の国(憲法1条)であり、さまざまな多様な情報や意見が社会において自由に発信され流通し、また、さまざまな情報や意見を国民・個人が自由に受取り、社会のさまざまな場面で国民が自由闊達に議論することが可能な状況において、議論によりさまざまな意見が競争することにより、真理やよりよい結論に到達することができるという「思想の自由市場論」が、判例や学説が表現の自由を重視する根底にあります(野中俊彦・中村睦男・高橋和之・高見勝利『憲法1 第5版』352頁 )。

(3)会場である大阪府立労働センター「エル・おおさか」の指定管理者側が敗訴する可能性
そのため、大阪地裁に提起された本事件の取消訴訟は、施設の指定管理者側が敗訴する可能性が高いといえます。

また、施設の利用承認取消処分の執行停止の申立についても、同展の開催期間がせまっており、それを過ぎると集会や表現の機会が失われてしまうため、「処分、処分の執行又は手続の続行により生ずる重大な損害を避けるため緊急の必要があるとき」(行政事件訴訟法25条2項)に該当するとして、大阪地裁が執行停止も認める可能性もあるといえます。

4.本裁判のあとについて・近代立憲主義憲法
最高裁の判例や憲法の学説・通説にたつと、大阪地裁の本訴訟の今後の見通しは上でみたとおりになると思われます。しかし、このような結論には少なくない国民・住民が違和感を感じるのではないでしょうか。

近年、「表現の不自由展かんさい」などの「表現の不自由展」の活動を支持・応援するいわゆるリベラル派・左派の人々は、「表現の不自由展」などに関する自分達の好む表現の自由・集会の自由(例えば、昭和天皇の写真を燃やす表現や、韓国の慰安婦像の表現など)を最大限実現することを主張する一方で、保守派・右派の人々の表現の自由や集会の自由を法規制する運動を展開してきています。

具体的には、いわゆるヘイトスピーチ対策法を国会で成立させ、また川崎市、大阪市などの一部の自治体では、罰則つきのヘイトスピーチ禁止条例などが制定されています。さらに川崎市などでは、リベラル派の弁護士などが自治体に指導するなどして、公の施設において上でみた泉佐野市民会館事件の最高裁の判断枠組みよりも緩い要件で保守派・右派の集会の申請を拒否できるように自治体の公の施設の規則・基準などの要件緩和の改正を行っています。
・「本邦外出身者に対する不当な差別的言動」の解消に向けた取組|川崎市

(また、最近はネット上の批判的な言論を規制する方向で、プロバイダ責任制限法が改正されました。しかしこれも、いわゆるインフルエンサーなどの、ネット上の有名人・芸能人などのごく一部のネット上の社会的地位の高い人々だけを法的に保護し、一般の庶民の国民のネット上の表現を規制する、あるいは一般人の表現を委縮させる結果になっているように思われます。)

しかし、このようにリベラル派・左派の政治政党やマスメディア、その支持者達が、自分達の好む表現・集会の自由は認める一方で、自分達が好まない表現・集会は規制・禁止することは、日本社会における表現の自由の許容される範囲を恣意的に自分達側に有利に縮小していると言えるのではないでしょうか。これは国民の一部の人々による一種の焚書坑儒・文化大革命、あるいは言論や思想の弾圧、一部の国民による事実上の検閲なのではないでしょうか。

そのようなリベラル派・左派の主張・行動や立法活動などは、恣意的に自分達と違う意見の保守派・右派などの意見を法的に規制・禁止しており、つまり自分達と違う意見について「表現を不自由」にしているのであって、日本の表現の自由の前提である、上でみた、各人が自己の意見を自由に表明し、議論により意見を競争させることにより真理やよりよい結論に到達できるという「思想の自由市場論」矛盾しているのではないでしょうか。

このようなリベラル派・左派の表現の自由に関する態度や見解は、「国家の立法や政策などにより、国民の表現の自由などの人権を規制し、国民の人権保障を行うべきである」という、「国家権力への強い信頼感」に基づいた「国家による人権保障」「国家による自由」の考え方が根底にあるように思われます。

この「国家による人権保障」「国家による自由」は、憲法に「表現の自由、集会の自由などの人権を、自由で民主的な基本秩序を攻撃するために利用する者は、これらの人権を喪失する」(ドイツ基本法18条「基本権の喪失」明記し、民衆扇動罪などの特別刑法の法令を設けている、第二次世界大戦後に発展したドイツ、フランスなど欧州各国のポスト近代憲法(脱近代憲法)の諸国のいわゆる「闘う民主主義」の考え方に親和的です。

しかし、日本アメリカなどと並んで、ポスト近代憲法の国ではなく、伝統的な近代憲法の国です。つまり、憲法13条が「すべて国民は、個人として尊重される生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と規定するように、わが国の憲法は、人間はこの世に生まれただけで尊い存在であり、一人一人違う国民・個人のその人格や個性は最大限尊重されなければならないという「個人の尊重」「生命、自由および幸福追求に対する国民の権利」(幸福追求権)などの「国民の基本的人権の確立」を国家の目的として掲げる近代立憲主義憲法の国です。近代立憲主義とは、18世紀のフランス革命やアメリカ独立戦争がその端緒であるという歴史的経緯をみても、なにより国民の個人の尊重と基本的人権の確立と、国家権力の暴走から国民を守ることを重視します。

そして、日米などの憲法にはドイツ基本法18条のような「闘う民主主義」の条文は存在せず、「思想の自由市場論」に立脚し、表現の自由を最大限認める方向の憲法となっており、表現の自由などの基本的人権は原則として他人の人権と衝突した場合のみに制限が許されるとされています(「公共の福祉」・憲法11条、12条、22条、29条)

2014年の京都朝鮮学校事件の最高裁判決(最高裁第三小法廷平成26年12月10日判決)が示すように、ヘイトスピーチの問題のように、ある表現・集会などのある集団に対する憎悪的な表現行為が当該集団や他人の人権や権利を侵害した場合についても、裁判所は、人種差別撤廃条約を援用しつつも、表現行為が他の人間の人権と抵触した場合の解決方法と同様に、従来どおり名誉棄損、業務妨害として不法行為による損害賠償責任(民法709条)の問題として事後的な法的解決を行っています。

(なお、人種差別撤廃条約は国連における採択から約30年後の平成8年にわが国も批准しましたが、そのように批准に時間がかかった背景には、同条約4条(a)(b)が人種差別的思想の流布などの処罰を義務づける趣旨の規定であり、憲法21条が保障する表現の自由などの権利に抵触する懸念があったとされています。つまり具体的には、人種差別的表現はある意味、文明評論や政治評論などの表現の自由の核心部分である政治的表現の自由との限界を定めることが困難であり、そのような正当な言論を不当に委縮させるおそれがあるからであるとされています。

そこで、日本政府は同条約の批准にあたり、“同4条について日本国憲法21条の下における諸権利の保障と抵触しない限度において義務を履行する”という趣旨の「留保」を付けた上で批准を行っています。同4条については、日本だけでなく、アメリカ、スイス、イギリス、フランスなども同様の留保や条件をつけています(阿部康次「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約」『ジュリスト』1086号73頁)。


すなわち、日本の憲法の基本的な考え方は、社会権などの「国家による人権保障」「国家による自由」ではなく、自由権・精神的自由、「国家からの自由」を第一に重視する伝統的な近代立憲主義憲法のものであり、独仏などの欧州のポスト近代憲法(脱近代憲法)とはその基本構造が大きく異なるものです。

そのため、日本がドイツ・フランスなど欧州の憲法・法令の構造と日本の憲法・法令の構造との差異を十分に検討することなく、ドイツ・フランスなどのヘイトスピーチ法制などを無批判に安易に輸入することは、法的な矛盾や社会のゆがみなどを生み出してしまう危険があるため、慎重であるべきです(辻村みよ子『比較憲法 新版』126頁)。

現代の国家は、社会保障などの「国家による自由」「国家による人権保障」の社会権が重視される、いわゆる福祉国家・行政国家(行政国家現象)であり、新型コロナの世界的な大流行により、今後もますます国の福祉国家化が進行するものと思われます。

しかし、近代立憲主義憲法の国においては、社会権が重要であることはもちろんですが、国家権力の暴走の危険から国民を守るという価値、つまり「国家からの自由」表現の自由などの自由権(精神的自由)に関わる基本的人権が第一に重要であるはずです。近年、ドイツでポスト近代的な憲法論に対する批判的な連邦憲法裁判所の判決(BVerfG 93.266)などが現れ、ドイツなどの学界もポスト近代的な憲法論のゆき過ぎを認めつつあることは、その証拠ではないでしょうか(樋口陽一・小林節『「憲法改正」の真実』90頁)。

かりに今回の「表現の不自由展かんさい」に関する訴訟において「表現の不自由展」側が勝訴するとしても、そろそろ日本の裁判所や憲法学界、政府や自治体、国会、あるいはリベラル派・左派の人々も、ヘイトスピーチ法制やプロバイダ責任制限法などの日本の表現行為の法規制が推進されつつある状況を再検討すべき時期なのではないでしょうか。

「批判や差別されている人々がかわいそう」、「ポリティカル・コレクトネス(political correctness)」等という人権活動家、反差別主義の活動家、社会学者、フェミニズムなどの人々の感情的でポスト近代的な主張や見解に、ここ10年の日本の憲法学の主流の学者の先生方は大いに耳を傾け、そのような主張や見解を非常に重視した憲法学がここ最近、展開されてきたように思われます。政府や国会もそのような主張や見解を重視した立法や政策を推進してきました。

しかし、そろそろ憲法学の主流の学者の先生方も、ポスト近代的な流行りの反差別活動家、人権活動家やフェミニズムの活動家、社会学者などに一方的に押されるばかりでなく、伝統的な近代立憲主義や自由主義・民主主義の理念に立ち返った、オーソドックスな憲法学・法律学の立て直しを行うべきなのではないでしょうか。

■参考文献
・芦部信喜・高橋和之補訂『憲法 第7版』180頁
・野中俊彦・中村睦男・高橋和之・高見勝利『憲法Ⅰ 第5版』352頁
・辻村みよ子『比較憲法 新版』126頁
・樋口陽一・小林節『「憲法改正」の真実』90頁
・阿部康次「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約」『ジュリスト』1086号73頁

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