なか2656のblog

とある会社の社員が、法律などをできるだけわかりやすく書いたブログです

タグ:表現の自由

Twitterのロゴ
1.マスク氏がTwitter社を買収
マスメディア各社の報道によると、「Twitterの言論の自由」を掲げるイーロン・マスク氏が4月25日、Twitter社を約5.6兆円(440億ドル)で買収したとのことです。そして今後はTwitter社は非公開会社になるとのことです。ここで気になるのは、今後のTwitterで言論の自由など表現の自由がどうなるか、ユーザーの個人データの取扱がどうなるか等でしょう。
・Twitter、マスク氏による買収に合意 440億ドル(約5.6兆円)で非公開企業に|ITmediaNEWS

少し前まで、Twitter社の言論の自由には問題が多いと主張するマスク氏はTwitter社の大株主となり取締役として同社の経営に参画し、同社の改革を行う姿勢を示していました。しかしマスク氏はそれを撤回し、Twitter社を丸ごと買収するとともに同社を非公開化することとしてしまいました。

これではオーナーとなったマスク氏が、その地位をよいことにそれまでいた株主や、Twitterのユーザーなどの声を聞かず、自分自身の理念の「言論の自由」を振り回してワンマン経営を行うリスクがあります。

現実に、マスク氏のテスラ社では人種差別やセクハラが横行し訴訟が提起されており、また、同じくマスク氏のスペースX社のブロードバンド事業「スターリンク」は、既に1800機もの人工衛星システムを軌道上に構築し、多くの天文学者から「光害問題」を批判されているにもかかわらず、さらに同システムを拡大する方針のようです。
・テスラ、セクハラ問題で女性6人が提訴--SpaceXにもセクハラ批判|CNET Japan
・スペースXのスターリンクが成長を続ける一方、光害問題も深刻化しかねない|WIRED

このようにマスク氏はITベンチャー企業の典型的な経営者であり、自己の野心や正義のために驀進するタイプの人物で、必ずしも清廉潔白な人物、あるいはコンプライアンス意識の高い人物というわけではありません。そのため、今後のTwitterにおける表現の自由や、ユーザーの個人データの取扱などがますます気になります。

2.「思想の自由市場論」vs「闘う民主主義」
マスク氏の主張する「言論の自由」とは、おそらくアメリカや日本の憲法学の背景にある「思想の自由市場論」に近いものであると思われます。これは、多くの表現や意見が自由に表明され議論されれば、よりよい結論や真理に到達できるであろうとする考え方であり、18世紀のフランス革命やアメリカ独立戦争などの市民革命を経た近代社会の表現の自由に関する近代憲法の前提となる考え方です。これに対して、第二次世界大戦におけるナチズムの反省に立つ欧州では、さらに一歩進んで「自由主義・民主主義に反する者には基本的人権を与えない」という、いわゆる「闘う民主主義」とのポスト近代憲法(脱近代憲法)の考え方をとっています。

もしマスク氏が「Twitterの言論の自由を改革する」とワンマン・オーナーぶりを発揮したら、マスク氏の好む言論や表現の許される範囲は拡大するかもしれませんが、その一方で、テスラ社やスペースX社への批判や、マスク氏などへの批判などは規制されるようになってしまうかもしれません。

表現への規制には公権力や国民の多数派による濫用の危険がつきまといます。例えば2014年には、当時の自民党は「ヘイトスピーチとセットで国会デモを法規制すること」を提言し、議論を巻き起こしました。

あるいは、仮にマスク氏が欧州の「闘う民主主義」的な規制の多い表現空間ではなく、アメリカ・日本などの「思想の自由市場論」的な規制の少ない表現空間を目指すとしたら、表現の自由との関係でそれは一般論としては望ましいものの、例えば、2021年1月のアメリカ議会襲撃事件をネット上で扇動したとされるドナルド・トランプ氏の現在「凍結」されているアカウントをどうするのか?という困難な問題が浮上することになると思われます。

このように言論の自由、表現の自由の規制の問題は非常に困難が多いものですが、とくにTwitterなどのSNSは、国・自治体ではなく一民間企業にすぎないTwitter社が同社のシステム上の言論や表現、あるいは個人データの取扱を管理・運営しているため、ますます難解なものとなります。

(なお、憲法は原則として国を規制するための法ですが、Twitter社などの民間企業に対しても、憲法は法律の一般条項(民法1条2項、90条など)を通じて間接的に適用されるとするのが判例であり憲法学の通説的な見解です。)

3.「デジタル荘園」
この点、2020年1月の日本経済新聞の山本龍彦・慶大教授(憲法・情報法)の「プラットフォーマーと消費者(下) 「デジタル封建制」統制を」とのインタビュー記事などが参考になると思われます。(山本教授は講演会などでも「デジタル荘園」の考え方を講義されておられます。)
・プラットフォーマーと消費者(下) 「デジタル封建制」統制を|日本経済新聞

「デジタル荘園」とは元々経済学者の提唱した概念のようですが、TwitterやFacebook、Googleなどの巨大IT企業のGAFAは、まるで中世の「荘園」のように、ユーザーを自社のプラットフォームに「領民」・「農奴」として囲い込み、各種のサービスを提供・管理・運営し、マルウェアなどからユーザーを守る代わりに、「年貢」としてユーザーから個人データ等を徴収するということを表した考え方です。

Hennequin_und_Herman_von)_Brüder_(Pol_Limburg_007
(中世ヨーロッパの荘園。Wikipediaより)

この「デジタル荘園」としてのTwitter等は、民主主義国家ではなく、あくまでも民間企業のサービスであり、われわれユーザーは国民ではなく消費者つまり「領民」や「農奴」に過ぎません。そのため、われわれユーザーは、仮にTwitter社のサービスや、「領主」のマスク氏や経営陣の経営に問題があるとしても、選挙権や被選挙権、リコール制度などは存在しないため、国民が民主主義国家の政府・議会に対してできることに比べて、Twitter社やマスク氏へ異議申し出や是正の要求を行うことが極めて困難になってしまいます。

18世紀の市民革命は荘園や教会などの「中間団体」を排除し、国家を国民と直接つなぎ、国民自身が国家に参画して自らを統治する近代民主主義国家が生まれたはずなのに、21世紀の現在、デジタル・プラットフォームであるGAFAなどの巨大IT企業が、再び中間団体としての「デジタル荘園」として、国民と国家とを分断しつつある状況です。

4.まとめ
このような「デジタル荘園」や、もしマスク氏がTwitter社をワンマン経営した場合のリスクに対しては、最近は日本・欧州などはデジタル・プラットフォーマー規制法(日本)・デジタルサービス法(EU)などを相次いで立法化していますが、そのような法的手当をより強化し、GAFAなど巨大IT企業を、国民の信託を受けた国会の立法による民主的なコントロールを行うことが必要なのかもしれません。

このブログ記事が面白かったらブックマークやシェアをお願いします!

■関連する記事
・メルケル独首相のツイッター社等のトランプ氏追放への「苦言」を考える-表現の自由
・「表現の不自由展かんさい」実行委員会の会場の利用承認の取消処分の提訴とその後を憲法的に考えた-泉佐野市民会館事件・思想の自由市場論・近代立憲主義

■参考文献
・水谷瑛嗣郎「AIと民主主義」『AIと憲法』(山本龍彦編)285頁
・野中俊彦・中村睦男・高橋和之・高見勝利『憲法1 第5版』312頁、352頁











このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

20220408_203454
(日本経済新聞の「月曜日のたわわ」の宣伝広告)

1.日経新聞のマンガ「月曜日のたわわ」宣伝広告が炎上
4月4日(月)の日本経済新聞のマンガ「月曜日のたわわ」の宣伝広告が、Twitterなどのネット上で、「「公共の場所」としての新聞広告にこのような表現はけしからん」とフェミニスト・社会学者などの方々から大きな批判が起き、賛否両論の「炎上」となっています。

ところで、電車の中の宣伝アナウンス(車内広告)が、そのような宣伝を聞きたくない乗客の自由(権利)を侵害するものか否かが争われた著名な憲法訴訟の「とらわれの聴衆」事件判決に照らしても、この日経の「日曜日のたわわ」の宣伝広告を批判している人々の主張は法律論としては、あまり正しくないように思われます。

2.「とらわれの聴衆」事件判決
「とらわれの聴衆」事件判決(最高裁昭和63年12月20日判決)は、大阪市の市営地下鉄の電車内の「次は〇〇前です」「〇〇へお越しの方は次でお降りください」という商業宣伝広告が、そのような商業宣伝広告を聞きたくない個人の人格権の侵害であるとして争われたものです。最高裁は、市営地下鉄の宣伝広告は不法行為または債務不履行との関係で違法とはいえないとしてこの訴えを退けています。

・最高裁判所第三小法廷昭和63年12月20日判決(昭和58(オ)1022 商業宣伝放送差止等請求事件)|裁判所

本判決にはパブリック・フォーラム論などで有名な伊藤正己裁判官の補足意見がつけられていますが、この補足意見によると、最高裁はいわゆる受忍限度論(「社会生活を営む上で我慢するべき限度」が受忍限度(我慢すべき限度)であり、これを超えると加害者側が違法となるが、これを超えない場合、被害者側は受忍をしなければならないとする考え方)で本件訴えを退けたようです。

そしてこの伊藤裁判官の補足意見は、「日常生活において、見たくないものを見ず、聞きたくないものを聞かない自由(権利)」について論じていることが、今回の日経の新聞広告との関係で参考になります。

3.伊藤正己裁判官の補足意見
「とらわれの聴衆」事件判決の伊藤正己裁判官の補足意見(概要)
『人は日常生活において見たくないものを見ず、聞きたくないものを聞かない自由を有している。これは、個人が他者から自己の欲しない刺激によって心の静謐を乱されない法的な利益であり、広い意味でのプライバシー権であり、人格的利益として幸福追求権(憲法13条)に含まれる。

『しかし、他者から自己の欲しない刺激によって心の静謐を乱されない権利も、社会に存在する他の利益との調整が図られなければならず、対立する利益(そこには経済的自由権も当然含まれる)との比較考量により、その侵害を受忍しなければならないこともありうる。

『すでにみたように、他者から自己の欲しない刺激によって心の静謐を乱されない権利は広義のプライバシーの権利と考えられるが、プライバシーは個人の居宅などと異なり、公共の場所においてはその保護が希薄とならざるを得ず、受忍すべき範囲が広くなることを免れない。したがって、一般の公共の場所にあっては、本件のような放送はプライバシーの侵害の問題を生じるとはいえない。』

このように伊藤裁判官の補足意見は、「日常生活において見たくないものを見ず、聞きたくないものを聞かない自由」は、「個人が他者から自己の欲しない刺激によって心の静謐を乱されない法的な権利(自由)」であり、「広い意味でのプライバシー権」であって、「人格的利益」として幸福追求権(憲法13条)に含まれるとしています。

しかし同補足意見は、この他者から自己の欲しない刺激によって心の静謐を乱されない権利も社会の対立する他の利益(権利)との比較衡量による調整が図られなければならないとし、この権利がプライバシー権の一種であることから、個人の居宅などと異なり、公共の場所ではその保護が希薄とならざるを得ず、受忍すべき範囲は広くなるとしています。

3.日経新聞の「月曜日のたわわ」の新聞広告を考える
この最高裁にかんがみると、日経新聞の「月曜日のたわわ」の新聞広告については、フェミニストや社会学者などの人々が、そのような新聞広告を見たくないと考え、そのような新聞広告は自らの人格権の侵害であるとすることは、「日常生活において見たくないものを見ず、聞きたくないものを聞かない権利」の一つに含まれ、「個人が他者から自己の欲しない刺激によって心の静謐を乱されない法的な権利(自由)」であり、「広い意味でのプライバシー権」であって、「人格的利益」として幸福追求権(憲法13条)に含まれると解される余地があります。

しかし、この「日常生活において見たくないものを見ず、聞きたくないものを聞かない権利」(憲法13条)も無制限なものではなく、社会に存在する他の権利との比較衡量による調整が必要となります。

「とらわれの聴衆」事件は市営地下鉄という公的機関による宣伝広告でしたが、日経新聞の件は、日経新聞は民間企業であり日経新聞を購読するか否かは個人の判断に委ねられており、マンガ「月曜日のたわわ」の漫画家も出版社も民間人であり民間企業であるので、これらの民間人・民間企業の営業の自由(憲法22条、29条)や表現の自由(営利的な表現の自由、憲法21条1項)もより重要な人権(経済的自由権・精神的自由権)となります。(なおそのため、フェミニスト等の人々の日経新聞の宣伝広告は「公共の場所」であるとの議論の前提にもやや疑問が残ります。)

また、「とらわれの聴衆」事件で問題となったのは、電車内の車内アナウンスから逃れられない「とらわれの聴衆」の乗客でしたが、日経新聞の件では、読者はもしその宣伝広告が不快であると感じたのなら、その紙面の該当部分を閉じて見なければよいだけの話です。(あるいは日経新聞の購読を止めるなど。)

4.まとめ
したがって、日経新聞の「月曜日のたわわ」の新聞広告を「公共の場所である新聞広告にふさわしくない」と批判しているフェミニストや社会学者などの方々には「日常生活において見たくないものを見ず、聞きたくないものを聞かない権利」(憲法13条)があるとしても、日経新聞や「月曜日のたわわ」の漫画家や出版社などの権利との比較衡量をすると、受忍限度の範囲内にとどまり、「月曜日のたわわ」の新聞広告は不法行為および債務不履行との関係で違法でないということになると思われます。

■追記-マンガ・アニメ等の表現の自由と「見たくないものを見ない自由」・SDGs
なお近年、とくにフェミニストや社会学者の人々が、女性の「見たくないものを見たくない権利」を主張し、街の宣伝広告やポスターなどを規制する条項を東京都の条例などに盛り込むべきであるとの議論がなされているとの話もあります。

あるいは2010年頃にはマンガ・アニメ等の表現規制のために、東京都の青少年保護条例に「非実在少年」の条項を盛り込もうという議論も行われ、2021年の衆院選挙においては、日本共産党が「非実在児童ポルノ」という概念を持ち出して、マンガ・アニメなどの表現の自由規制を行うことを公約に掲げ議論を巻き起こしました。さらに近年、コンビニで成年向けの雑誌などがコンビニの「自主規制」により撤去されている問題も発生しています。

このような問題に関しては、表現の自由(憲法21条1項)だけでなく、この「とらわれの聴衆」事件最高裁判決の「見たくないものを見ない自由」の伊藤正己裁判官の補足意見も大いに参考になるものと思われます。フェミニズムの人々は女性の「見たくないものを見ない自由」を声高に主張しますが、それは法的権利(憲法13条)であるとしても絶対無制限なものではなく、例えば漫画家や出版社、読者などの表現の自由や情報を受け取る自由(21条1項)、営業の自由(22条、29条)などとの調整が重要なのです。(これはフェミニズムや社会学者の人々が主張する平等(憲法14条1項)についても同様です。)

なお、フェミニズムや社会学者の方々は、しばしばSDGs(Sustainable Development Goals)を根拠としてジェンダー平等などの主張を行いますが、SDGsは2015年に国連総会で採択された2035年までの国際的な「目標」であり法的義務を持つものではありません。仮にSDGsが国際条約的な意味を持つとしても、国際条約は憲法(日本国憲法など)より下位の法規範です(憲法98条1項、2項)。そのため、SDGsの掲げるジェンダー平等等が憲法の定める表現の自由や営業の自由などの基本的人権より優越する価値理念だという考え方は間違っています。また、SDGsの目標16(平和と公平)のなかのターゲット16-3には「法令遵守」が盛り込まれています。そのためジェンダー平等などの理念のためには表現の自由や営業の自由、平等などの憲法の定める基本的人権は制限されるとのフェミニズムや社会学者等の方々の主張はやはり正しくありません。

このブログ記事が面白かったらブックマークやシェアをお願いします!

■参考文献
・渡辺康行・宍戸常寿・松本和彦・工藤達朗『憲法1基本権』278頁
・野中俊彦・中村睦男・高橋和之・高見勝利『憲法1 第5版』273頁
・紙谷雅子「車内広告放送と「とらわれの聴衆」」『憲法判例百選1 第7版』44頁
・最高裁判所第三小法廷昭和63年12月20日判決(昭和58(オ)1022 商業宣伝放送差止等請求事件)|裁判所
・SDGsとは?|外務省

■関連する記事
・日本共産党の衆院選公約の「非実在児童ポルノ」政策は憲法的に間違っている
・「幸福追求権は基本的人権ではない」/香川県ゲーム規制条例訴訟の香川県側の主張が憲法的にひどいことを考えた
・「表現の不自由展かんさい」実行委員会の会場の利用承認の取消処分の提訴とその後を憲法的に考えた-泉佐野市民会館事件・思想の自由市場論・近代立憲主義
・デジタル庁「教育データ利活用ロードマップ」は個人情報保護法・憲法的に大丈夫なのか?
・スーパーシティ構想・デジタル田園都市構想はマイナンバー法・個人情報保護法や憲法から大丈夫なのか?-プロファイリング拒否権・「デジタル・ファシズム」



















このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

共産党サイト
(日本共産党サイトより)

1.日本共産党の「非実在児童ポルノ」に関する選挙公約
日本共産党の2021年衆議院選挙の各政策の「7、女性とジェンダー」「非実在児童ポルノ」に関する記述を読みました。
・「7、女性とジェンダー」|日本共産党

私はマンガ・アニメ・ゲームなどの表現規制に反対の立場であるので、「非実在児童ポルノ」の法規制のために「社会的合意」を作ってゆくという日本共産党のこの政策に反対であり、この政策の撤回を求めます。

日本共産党の2021年衆議院選挙の各政策の「7、女性とジェンダー」の「非実在児童ポルノ」に関する政策はつぎのように記述しています。

現行法は、漫画やアニメ、ゲームなどのいわゆる「非実在児童ポルノ」については規制の対象としていませんが、日本は、極端に暴力的な子どもポルノを描いた漫画やアニメ、CG、ビデオ、オンライン・ゲーム等の主要な制作国として国際的にも名指しされており、これらを適切に規制するためのより踏み込んだ対策を国連人権理事会の特別報告者などから勧告されています(2016年)。

非実在児童ポルノは、現実・生身の子どもを誰も害していないとしても、子どもを性欲や暴力の対象、はけ口としても良いのだとする誤った社会的観念を広め、子どもの尊厳を傷つけることにつながります。「表現の自由」やプライバシー権を守りながら、子どもを性虐待・性的搾取の対象とすることを許さない社会的な合意をつくっていくために、幅広い関係者と力をあわせて取り組みます。

この政策を読むと、「日本は、極端に暴力的な子どもポルノを描いた漫画やアニメ、CG、ビデオ、オンライン・ゲーム等の主要な制作国として国際的にも名指しされており」、国連人権理事会からも勧告を受けているとした上で、「非実在児童ポルノは、現実・生身の子どもを誰も害していないとしても、子どもを性欲や暴力の対象、はけ口としても良いのだとする誤った社会的観念を広め、子どもの尊厳を傷つけることにつながります。」とし、「子どもを性虐待・性的搾取の対象とすることを許さない社会的な合意をつくっていく」としています。

この記述を素直に読むと、「子どもポルノを描いた漫画やアニメ、CG、ビデオ、オンライン・ゲーム等」の「非実在児童ポルト」は「子どもを性欲や暴力の対象、はけ口としても良いのだとする誤った社会的観念を広め、子どもの尊厳を傷つける」ので、「非実在児童ポルノ」を法規制するための「社会的合意」を作ってゆく、つまり、日本共産党は、マンガ・アニメ・ゲームなどにおける「非実在児童ポルノ」法規制するために「社会的合意」を作ってゆくとなっています。

2.日本共産党の10月18日付の釈明文書
この点、ネット上で日本共産党が「非実在児童ポルノ」の法規制、つまり表現の自由の規制推進に舵を切ったとの大きな批判を受け、日本共産党は10月18日付で「「共産党は表現規制の容認に舵を切ったのですか」とのご質問に答えて」との釈明文書を公表しました。
・「共産党は表現規制の容認に舵を切ったのですか」とのご質問に答えて|日本共産党

しかしこの釈明文書も、「日本の現状への国際的な指摘があることを踏まえ、幅広い関係者で大いに議論し、子どもを性虐待・性的搾取の対象とすることを許さないための社会的な合意をつくっていくことを呼びかけたものです。」と記しているとおり、「子どもポルノを描いた漫画やアニメ、CG、ビデオ、オンライン・ゲーム等」の「非実在児童ポルト」は「子どもを性欲や暴力の対象、はけ口としても良いのだとする誤った社会的観念を広め、子どもの尊厳を傷つける」ので、「非実在児童ポルノ」を法規制するための「社会的合意」を「呼びかけてゆく」と書かれているので、つまり、「「非実在児童ポルト」は「子どもを性欲や暴力の対象、はけ口としても良いのだとする誤った社会的観念を広め、子どもの尊厳を傷つける」ので、法規制するための「社会的合意」を作ってゆくとされており、結局、日本共産党が「非実在児童ポルノ」を法規制するための「社会的合意」を形成する方針、つまり日本共産党は表現規制推進派に舵を切ったことに変わりはありません。

私はマンガ・アニメ・ゲームなどの表現規制に反対の立場であるので、「非実在児童ポルノ」の法規制のために「社会的合意」を作ってゆくという日本共産党のこの政策に反対です。

2.表現の自由について憲法から考える
(1)表現の自由(憲法21条1項)

言うまでもないことながら、18世紀のフランス革命やアメリカ独立戦争以降の西側近代社会においては、表現の自由は、国民が自らの表現行為を行うことにより自らの人格を成長させるという自己実現の価値があるとともに、国民がさまざまな意見や見解を授受して議論を行い、民主政治に参加するための前提の人権という民主主義の価値(自己統治の価値)という二つの価値があります。そして特に後者の民主主義の価値のため、民主主義国家においては表現の自由はとりわけ重要な基本的人権です(芦部信喜・高橋和之補訂『憲法 第7版』180頁)。

日本国憲法
第21条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

そのため、かりに表現規制をするとしてもできるだけ表現内容には踏み込まず、時・場所などの面から規制したり(表現内容中立規制)、表現規制の基準はあいまい・漠然としたものであってはならない(明確性の原則)とするのが憲法学の基本的な考え方です。

にもかかわらず、ネット上でのある方の日本共産党への電話での問い合わせによると、日本共産党は「手塚治虫は法規制しない」等と回答しているとのことで、マンガ・アニメなどの表現内容に踏み込んで自分達の好き嫌いや恣意的な判断でマンガ・アニメなどを表現内容から規制する意図を隠そうともしていないとのことであり、これは2010年に「非実在青少年」なる概念を掲げてマンガ・アニメなどの表現規制を行おうとした東京都自民党などと何ら変わるところはありません。

・『日本共産党中央委員会への電凸記』|ヒトシンカ
・問い合わせの結果、共産党は表現規制派に転向したことが確定。共産党は”議論なしの法規制”に反対なだけで、”議論の上での法規制”には反対しない。|togetter
・【表現規制】日本共産党・吉良よし子参議院議員「“こういう表現は本当にまずいよね”“儲からないよね”という合意ができれば、クリエイターの皆さんも作らなくなると思う」|togetter
・共産党が規制対象としてコミケを名指し。”規制を求めるべき、子供を性的に虐待したり搾取したりする漫画やアニメがコミックマーケットで沢山売られている”|togetter

共産党吉良よし子
(「こういう表現は本当にまずいよね”“儲からないよね”という合意ができれば、クリエイターの皆さんも作らなくなると思う」等と「非実在児童ポルノ」政策を説明する共産党の吉良よし子議員。ABEMA NEWSより)

共産党手塚治虫は法規制しない
(松田未来氏のTwitterより)
https://twitter.com/macchiMC72/status/1450651084377055238

しかもその表現規制の理由が、「非実在児童ポルト」は「子どもを性欲や暴力の対象、はけ口としても良いのだとする誤った社会的観念を広める」という真偽不明な、あいまいで漠然としたものであり、その規制の基準も「手塚治虫は法規制しない」等という日本共産党の恣意的な判断で規制を行おうということも非常に漠然としてあいまいなものであり、表現の自由など精神的人権はその重要性から、その法規制は明確でなければならないという明確性の原則「漠然性ゆえに無効」「過度の広範性ゆえに無効」)に反しているので、日本共産党の「非実在児童ポルノ」政策憲法21条1項に反して違法・違憲で無効なものです(最高裁昭和50年9月10日判決・徳島市公安条例事件、芦部・高橋・前掲213頁)。

さらに、いったん表現の規制立法ができてしまうと、その表現規制立法について公権力による濫用のおそれの危険が発生します。つまり表現の規制法ができてしまうと、政府に規制対象の認定権をゆだねることになり、その恣意的な適用が懸念されることになります(渋谷秀樹『憲法 第2版』380頁)。

例えば最初はマンガ・アニメなどの「非実在児童ポルノ」だけが法規制の対象だったものが、いつのまにか同性愛などの内容をも禁止の対象が拡大するであるとか、国・政府や政治政党等を批判することが禁止の対象にされるなど、政府の恣意的な判断で表現の自由の規制の対象範囲がどんどん拡大してしまう危険があります。

実際にも、2014年8月には、国会でヘイトスピーチ規制法の議論が行われた際に、自民党の高市早苗政調会長(当時)は、「ヘイトスピーチとセットで国会前デモも規制する立法を検討する」との見解を公表しました(「国会周辺の大音量デモ規制も検討 自民ヘイトスピーチPT」産経ニュース2014年8月28日付より)。表現の自由規制立法の公権力による濫用の危険は机上の空論ではないのです。

(2)検閲・事前抑制の禁止(憲法21条2項)
憲法21条2項は「検閲」を禁止しています。これは戦前の日本の政府や軍部、特高警察などのファシズムによる表現弾圧・思想弾圧・学問弾圧への反省を踏まえたものです。

検閲とは、「公権力が外に発表されるべき思想の内容をあらかじめ審査し、不適当と認めるときには、その発表を禁止する行為」です。この「公権力」とは行政権のことであり、国や自治体などが該当します。また、検閲の対象広く表現内容を指します。さらに検閲の時期については思想・情報の発表前とするのが判例ですが、憲法学の通説は、現代社会では表現の自由について国民の「知る権利」が重要であることから、思想・情報の国民の受領時を基準として、思想・情報の発表に重大な抑止効果をおよぼすような規制も検閲に該当するとしています(最高裁昭和59年12月12日判決・税関検査事件、最高裁平成元年9月19日判決・岐阜県青少年保護条例事件、芦部・高橋・前掲207頁)。

そのため、もし日本共産党の主張する「非実在児童ポルノ」を規制するとの「社会的合意」が社会に形成され、それに基づいて国会で「非実在児童ポルノ規制法」などが制定され、当該法律に基づいて法務省などの行政機関や自治体、あるいは立憲民主党の主張する「人権機関」などの行政権が「非実在児童ポルノ」を公表前に審査し発表を禁止すると憲法の禁止する「検閲」に該当し憲法21条2項違反となります(判例)。

あるいは「非実在児童ポルノ」が書店やコミケ(コミックマーケット)等で書店の顧客やコミケ参加者が当該図書等を手にとる前に国・自治体などが当該図書の販売を禁止したり、ネットやSNS上で「非実在児童ポルノ」が公表された後に国・自治体などが当該表現物の公表をSNS等の運営会社に停止させること等は、憲法学の通説の「検閲」に該当し憲法21条2項違反となります。

3.憲法の基本構造から考える
また、日本共産党は国連人権委員会の意見を錦の御旗のように掲げていますが、戦後の欧州がナチズムへの反省から、自由主義・民主主義に反する者には表現の自由や集会の自由などの基本的人権を与えないと憲法に明記し(ドイツ基本法18条など)、特別刑法で民衆扇動罪などを準備する「闘う民主主義」という「国家による人権保障」「ポスト近代憲法」のスタンスをとるのに対して、アメリカの憲法や、アメリカの憲法をもとに現行憲法を制定した日本は、戦前の言論弾圧・表現弾圧・思想弾圧が戦争を招いた反省を踏まえ、「さまざまな意見を自由に発言させて議論させれば、よりよい結論を得られるだろう」という「思想の自由市場論」(野中俊彦・中村睦男・高橋和之・高見勝利『憲法Ⅰ 第5版』352頁)を基本とする、表現の自由などの国民の精神的自由に関して「国家からの自由」を重視する、伝統的な「近代憲法」の国です。

このような欧州のポスト近代憲法と日米の近代憲法との違いの検討を欠いたままで、欧州の「国家による人権保障」「法律による人権保障」を安易に志向することには大きな問題があります(辻村みよ子『比較憲法 新版』126頁)。

国連人権委員会は、「国家による人権保障」を重視する欧州型の「ポスト近代憲法」のスタンスに立って「非実在児童ポルノの禁止」を日本に要求していると思われますが、そもそも日本は思想の自由市場論や「国家からの自由」を重視する伝統的な「近代憲法」を国の基盤とする国家なので、憲法的な基盤の異なる国連人権委員会の主張を唯々諾々と受け入れる日本共産党の姿勢は憲法学的に間違っています。日本共産党はフェミニストや社会学者、反差別活動家、人権活動家などに乗っ取られ、憲法学や法律学に詳しい人材がいなくなってしまったのでしょうか?

4.思想・良心の自由(憲法19条)
さらに、日本共産党は、「非実在児童ポルノ」は「子どもを性欲や暴力の対象、はけ口としても良いのだとする誤った社会的観念を広める」と主張していますが、それは日本共産党の高齢の女性幹部達の恣意的な思想や判断、決めつけの国民への押し付けなのではないでしょうか。

「非実在児童ポルノ」を見た国民が「「子どもを性欲や暴力の対象、はけ口としても良いのだとする誤った社会的観念」を持つということについて、日本共産党は何らかの科学的・医学的なエビデンスを持っているのでしょうか?

日本共産党の高齢の女性幹部の方々が、「こういうわいせつなアニメ・マンガ・ゲームを見たら、日本の若い男性は、子どもを性欲や暴力の対象、はけ口としても良いのだとする誤った社会的観念を持つ」と考えたとしても、現実の日本の若い国民がそう思わないことのほうが多いように思われます。

例えば、本年9月には、日本共産党や社民党の女性政治家達の全国フェミニスト議員連盟が、千葉県警の交通安全を啓発するための動画に千葉県松戸市の女性VTuber「戸定梨香」氏を起用したところ、戸定梨香氏の3Dのキャラクターが「女性を性的に搾取している」と、全国フェミニスト議連が千葉県警に当該交通安全啓発の動画を削除させた事件が起こりました。

vtuberアベマニュース
(ABEMA NEWSより)
・「女性の権利や社会進出を訴えたいという思いは同じだと思う」松戸市のVTuber「戸定梨香」の動画削除で、運営会社社長が全国フェミニスト議員連盟に呼びかけ|ABEMA TIMES

この事件で問題となった戸定梨香氏の3Dキャラクターを私も見ましたが、ごく普通のキャラクターでした。日本共産党などの全国フェミニスト議員連盟は、単に「自分達、高齢女性にはよく分からない表現で何だか気にくわないから、「性的搾取」という理由で弾圧してやれ」と思っているとしか思えませんでした。全国フェミニスト議員連盟のやっていることは、「焚書」や、中国の文化大革命などと同様の文化・文明を破壊する表現弾圧や思想弾圧の蛮行であると思われます。

同様に、今回の「非実在児童ポルノ」についても、日本共産党の幹部達は、「自分達にはよく理解できない表現だから若者がそういう表現を好むことはけしからん、このような表現は「子どもを性欲や暴力の対象、はけ口としても良いのだとする誤った社会的観念」を招くとして法規制のための「社会的合意」を形成しようと考えていると思われます。

それは、国家が国民の言論を監視・検閲し、国民に特定の思想を強制し、国家が特定の思想や表現を弾圧する中国北朝鮮ロシアジョージ・オーウェルの小説「1984」のようなファシズム国家、監視国家などと同じです。

さらに、そもそも国民が心のなかで何を思うか、どのような思想や良心を持つか自体は、憲法が思想・信条や良心、内心の自由として絶対的に保障しているところです(憲法19条)。個人の思想や良心がその個人の内心にとどまっている限りは、他人の人権と衝突しないので、それは絶対的に保障されます。政治政党として公権力の一部である日本共産党が、国民の思想や良心に介入することは憲法19条に違反する違法・違憲な行為です。

日本国憲法

第19条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。


にもかかわらず、日本共産党が「子どもを性欲や暴力の対象、はけ口としても良いのだとする誤った社会的観念」を招くから「非実在児童ポルノ」を「社会的合意」のもとに法規制を行おうとすることは、自民党が2012年に公表した憲法改正草案で示したような、「経済を発展させ国を成長させる義務」「家族助け合い義務」などの特定の価値観や考え方、思想などを公権力が国民に強制するものと同様の行為であり、内心の自由を定める憲法19条違反であるとともに、国民の自由意思を重んじる、個人の尊重と基本的人権の確立を国家の目的とする近代憲法である日本国憲法の趣旨・目的(憲法11条、97条)そのものに反しています。

このように、日本共産党の「非実在児童ポルノ」に関する政策は、表現の自由(憲法21条1項)に関する基本的理解を誤っており、また、日本共産党という政治政党が「社会的合意」により法改正などにより国民の表現の自由を規制し、また、国民に政治政党である日本共産党が立法などを通じて自分達の好む思想を国民に強制しようとしている点で、国民の内心の自由(憲法19条)を侵害し、国民の自由意思に基づく自由な民主主義という日本の憲法の趣旨そのものに違反しています(憲法11条、13条、97条)。

日本共産党の国会議員や地方議員達は、政府・与党の議員や官僚などと同様に、憲法尊重擁護義務(憲法99条)を負っていますが、日本共産党はそのことを失念しているのではないでしょうか?

5.フェミニズム・ジェンダー平等
たしかにあらゆる差別の禁止、男女平等という平等原則・法の下の平等は重要な基本的人権(憲法14条1項)であり、私も男女平等や「女性の権利の向上」には大賛成です。しかし平等原則も人権である以上無制限に認められるものではなく、他の人権と衝突した場合にはその調整が必要となります(「公共の福祉」・憲法12条、13条、22条、29条)。

女性の平等権を侵害する表現等があった場合は、上でみたように表現の自由の重要性に鑑み、そのような表現行為は、現在の判例・通説上そうであるように、名誉棄損やわいせつ罪などの観点から裁判所で判断され事後的に救済されるべきです(最高裁昭和44年6月25日判決など)。

そのため、近年、日本共産党をはじめとする野党各党やフェミニスト、社会学者などは、「女性の権利の向上」「ジェンダー平等」などの主張を錦の御旗のように掲げ、それと異なる主張や価値観や、マンガ・アニメ・ゲーム等を激しく攻撃していますが、それは「フェミニズム・ファシズム」あるいは「女性至上主義」とでも呼ぶべきものであり、男女の平等を定める憲法14条1項違反であって、憲法学・法律学の観点から明らかに間違っています。

また、最近の日本共産党や立憲民主党などは、「フェミニズム」「ジェンダー平等」を憲法の掲げる個人の尊重と基本的人権よりも上位の価値理念であるかのような主張をしています。

たしかに最近、「ジェンダー平等」は日本でも社会的注目を集めている理念ですが、法的にみると、これは2015年の国連総会で採択された「持続可能な開発目標」・SDGs(Sustainable Development Goals)が17の目標を掲げているところ、その5番目に「ジェンダー平等」が掲げられているものです。
・持続可能な開発目標・SDGsとは|外務省

SDGS
(SDGsの17の目標。外務省サイトより)

つまり、「ジェンダー平等」を目標の一つに掲げるSDGsは、国連で採択された条約の一種であり、憲法学の通説は、条約と憲法との上下関係について、憲法98条は憲法が最高法規であり、法律や国の政策、処分などに優先すると規定していることから、憲法が条約に優越するとしています(98条)。

したがって、共産党や立憲民主党、フェミニストや社会学者などが、ジェンダー平等やフェミニズムなどの価値理念を憲法の定める表現の自由、法の下の平等、内心の自由などの基本的人権より優越する価値理念であるかのように主張することは憲法98条に違反しています。

さらに、上でみたように、共産党や立憲民主党などは国会議員等で構成される政治政党なので、共産党や立憲民主党などは憲法尊重擁護義務(憲法99条)を負っており、「非実在児童ポルノ」政策などの憲法違反の政策を主張する共産党や立憲民主党などは尊重擁護義務違反でもあります。(共産党・立憲民主党などは、憲法尊重擁護義務を負うのは政府与党だけだと勘違いをしているのでしょうか?)

従来、共産党や立憲民主党などは、「憲法を守れ」と主張する「護憲政党」であったはずですが、フェミニズムやジェンダー平等等を憲法の規定する表現の自由や法の下の平等より優越する価値理念であると憲法違反の主張を行っている共産党・立憲民主党等には「護憲政党」を名乗り「憲法を守れ」と主張する資格はもはやありません。

6.まとめ-日本共産党は「非実在児童ポルノ」政策の撤回を
戦前、特高警察に拷問で殺されたプロレタリア文学の小林多喜二が党員であった日本共産党は、公権力の暴走や、公権力の表現規制と闘うことがアイデンティティの政党だと思っていたのですが、表現規制推進に転換したことは信じられません。

小林多喜二
(特高警察により拷問で殺された小林多喜二の遺体を囲む遺族や文学者達。日本共産党サイトより)

戦前の日本は軍国主義・ファシズムが台頭し、その考え方の「社会的合意」に基づいて議会で治安維持法、翼賛体制などが立法化され、滝川事件などの学問弾圧や思想弾圧公立図書館などにおける「思想善導」などが行われ、第二次世界大戦に突入してしまいました。このような公権力による思想や価値観の強制や、表現の自由規制などがいかに間違ったものであるかは、第二次世界大戦の無残な戦禍の結果を見れば歴史的に明らかです。

表現の自由や内心の自由は民主主義の基盤であり、自民党などと同様に、表現規制推進派、つまりファシズムや国家主義、検閲を是とする監視国家的価値観に転換した日本共産党は、自由な民主主義や表現の自由、内心の自由を掲げる日本国憲法について、「憲法を守れ」と主張する資格や「護憲政党」を名乗る資格はありません。また、自民党・公明党や維新等を全体主義・国家主義と批判する資格ももはやありません。

このような理由から、私は日本共産党の2021年衆議院選挙の各政策の「7、女性とジェンダー」の「非実在児童ポルノ」の政策に反対であり、この政策の撤回を求めます。

(なお今回の衆院選の公約において、「インターネット上の誹謗中傷を含む、性別・部落・民族・障がい・国籍、あらゆる差別の解消を目指すとともに、差別を防止し、差別に対応するため国内人権機関を設置します。」としている立憲民主党の主張も、日本共産党の「非実在児童ポルノ」政策と同様に、国民の表現行為などを国(人権機関)が監視・検閲し、特定の表現行為や思想を弾圧し、立憲などが好む表現や思想を国民に強制する点で、中国や北朝鮮などのファシズム国家・超監視国家と同様であり、「反差別ファシズム」、「人権ファシズム」とでも呼ぶべきものであり、憲法の規定する表現の自由(憲法21条1項)や思想・良心の自由(憲法19条)に違反し、また自由主義と民主主義を掲げる日本国憲法の趣旨・目的そのものに反する考え方であり、私は反対であり撤回を求めます。)
・人権政策の抜本強化|立憲民主党

■追記(2021年11月2日)
報道によると、10月31日の衆議院選挙の大敗を受けて、立憲民主党の枝野幸男氏が党首を辞任するとのことです。衆院選の大敗もさることながら、「立憲民主党」という「立憲」を冠した党名の政党でありながら、国民の現実やネット上のあらゆる表現行為を検閲・規制する「人権機関」という近代立憲主義憲法に反するファシズム的な公約を掲げた立憲民主党の枝野氏が辞任するのは当然のことです。

同様に、「非実在児童ポルノ」というこれも近代立憲主義憲法に反するファシズム的な公約を掲げて衆院選で敗北した日本共産党の志位和夫委員長や、同政策の責任者の吉良よし子氏池内さおり氏なども責任をとって辞任更迭されるべきです。

面白かったらブックマークなどをお願いします!

■参考文献
・芦部信喜・高橋和之補訂『憲法 第7版』180頁、213頁
・渋谷秀樹『憲法 第2版』380頁
・野中俊彦・中村睦男・高橋和之・高見勝利『憲法Ⅰ 第5版』352頁
・辻村みよ子『比較憲法 新版』126頁
・樋口陽一・小林節『「憲法改正」の真実』90頁

■関連する記事
・「幸福追求権は基本的人権ではない」/香川県ゲーム規制条例訴訟の香川県側の主張が憲法的にひどいことを考えた
・東京医科大学の一般入試で不正な女性差別が発覚-憲法14条、26条、日産自動車事件
・懐風館高校の頭髪黒染め訴訟についてー校則と憲法13条・自己決定権
・「表現の不自由展かんさい」実行委員会の会場の利用承認の取消処分の提訴とその後を憲法的に考えた-泉佐野市民会館事件・思想の自由市場論・近代立憲主義
・コロナ下のテレワーク等におけるPCなどを利用した従業員のモニタリング・監視を考えた(追記あり)-個人情報・プライバシー・労働法・GDPR・プロファイリング
・欧州の情報自己決定権・コンピュータ基本権と日米の自己情報コントロール権
・JR東日本が防犯カメラ・顔認証技術により駅構内等の出所者や不審者等を監視することを個人情報保護法などから考えた(追記あり)
・LINEの個人情報事件に関するZホールディンクスの有識者委員会の最終報告書を読んでみた
・xIDのマイナンバーをデジタルID化するサービスがマイナンバー法違反で炎上中(追記あり)



















このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

河野太郎Twitterトップ画面
(河野太郎氏のTwitterより)

1.河野太郎大臣がTwitter上で批判的な国民にブロックを多用していることが話題
河野太郎行政改革担当相はTwitterで237万人を超えるフォロワー数がおり、熱狂的な支持層がいる一方で、Twitterブロック機能を多用することでも知られています。河野大臣がTwitterのブロックを多用することについては9月7日に記者会見で記者から質問が出され、河野大臣は「Twitter上でも礼節を求めることは当然」で問題ないとの回答をしたとのことです。(なお、安倍前首相や立憲民主党の蓮舫議員なども、Twitterでブロックを多用することで有名です。)

しかし、アメリカにおいては2019年にトランプ氏Twitter上で批判的なユーザーをブロックすることが争われた裁判において、トランプ氏のブロックは米合衆国憲法の規定する「言論の自由」の侵害であり違憲との興味深い判決が出されているところです。このブログ記事では、政治家がTwitter上でユーザーをブロックすることについて、主に憲法から考えてみたいと思います。
・河野大臣、ツイッターのブロック「問題ない」SNS上でも礼節求める|朝日新聞

2.表現の自由
日本の憲法21条1項は国民の基本的人権として「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」表現の自由を規定しています。この表現の自由は、意見や表現などを表明するだけでなく、情報をコミュニケーションする自由ですので、意見などの情報を受け取る自由、議論をする自由、国民の「知る権利」なども含まれます。

日本国憲法
第21条
第1項 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

この表現の自由は、国民個人が表現活動を通じて自己実現や自己の人格を発展させるという個人的な価値(自己実現の価値があるだけでなく、表現活動によって国民が政治的意思決定に関与するという民主政に資する社会的な価値(自己統治の価値の二つの価値があり、とりわけ後者の、国民が議論により民主政治に参加するために不可欠な基本的人権であるという、民主主義国家の前提をなす基本的人権として極めて重要な人権です(芦部信喜・高橋和之補訂『憲法 第7版』180頁)。

3.プライバシー権・自己決定権・自己情報コントロール権
その一方で、国民個人には、例えば①子どもをもうけるかどうかなど家族のあり方を決める自由、②服装・髪型など身じまいなどのライフスタイルを決める権利、③尊厳死・医療拒否なぞ自分の生命のあり方を決める自由など、個人の人格的な生存にかかわる重要な私的事項を個人が公権力や他人から干渉されずに自律的に決定する自己決定権という基本的人権が存在します。この自己決定権はもともとアメリカの判例で形成された「一人でほっておいてもらう権利」として発展してきたプライバシー権(古典的プライバシー権・狭義のプライバシー権、東京地裁昭和39年9月28日判決・「宴のあと」事件)と並んで形成された、「広義のプライバシー権」とされ、個人の尊重幸福追求権を規定する憲法13条の保障のもとにあるとされています。

この「個人の人格的な生存にかかわる重要な私的事項を個人が公権力や他人から干渉されずに自律的に決定する権利・自由」としての自己決定権には、国民個人が誰と友人・知人や会話や議論の相手となるか/ならないかという他社との私的な関係性を自己決定する権利も含まれるといえるのではないでしょうか。つまり、河野大臣がTwitter上で批判的なユーザーをブロックすることは、自己決定権から一応説明が可能とも考えられます。

4.基本的人権の限界
とはいえ国民の基本的人権も無制限ではありません。憲法12条、13条、22条、29条は、国民の基本的人権は「公共の福祉」により制約を受けることがあると規定していますが、この「公共の福祉」とは、ある個人の基本的人権が他の個人の基本的人権と衝突した際に、その基本的人権を制約し衝突を抑えるものであり(内在的制約)、現代ではこの基本的人権に内在する制約は、上でみた憲法の4つの条文に関する基本的人権だけでなく、すべての基本的人権に該当すると考えられています(芦部・高橋・前掲111頁)。

そのため、河野大臣がTwitterで批判的なユーザーをブロックすることが表現の自由、自己決定権や自己情報コントロール権などに基づく人権であるとしても、それは無制限に許されるわけではなく、他の国民、とくに批判的な国民・ユーザーの表現の自由などとの関係で一定の制約を受けることになります。

5.憲法の私人や民間企業への適用の問題-間接適用説
ところで18世紀以降の西側自由主義諸国の近代憲法における基本的人権は、国家など公権力との関係で国民の人権などの権利・自由を保護することが重視されます(立憲主義)。Twitterは民間企業であるTwitter社が運営するサービスであるため、憲法の人権条項は適用されないのではないか?との問題があり得ます。

しかし現代社会においては大企業などの社会的権力による国民の権利自由の侵害が大きな問題となっています。そのため現代においては、憲法の基本的人権にかかわる条文は、民間企業と国家との関係や、国民の私人同士の関係においても、例えば公序良俗違反や権利の濫用は無効であるとする民法90条、同1条3項などの法律の一般条項の適用において、憲法の人権条項の趣旨を取り込んで法律の解釈・適用を行うという考え方が判例・通説となっています(間接適用説・最高裁昭和56年3月24日判決・日産自動車事件など)。そのため河野大臣のTwitter上のブロックの問題は、やはり憲法の基本的人権の問題でもあるわけです。

6.トランプ前アメリカ大統領のTwitter上のブロックに関するアメリカの裁判例
この点、アメリカでは、2019年に当時のアメリカ大統領ドナルド・トランプ氏Twitter上で批判的なユーザーをブロックすることは米合衆国憲法修正1条の定める「言論の自由」の侵害であり違憲であるとの2018年の第一審判決(ニューヨーク州南部地区連邦地方裁判所)を支持した興味深い連邦巡回控訴審判決が出されています(米連邦第2巡回控訴審2019年7月9日判決)。
・Twitterでのトランプ大統領の批判ブロックは違憲--米裁判所|C-NET Japan

このC-NET Japanの報道によると、大統領にブロックされた複数のTwitterユーザーを代表してコロンビア大学のナイト憲法修正第1条研究所がトランプ大統領に対して提起したこの裁判では、同研究所は、トランプ氏がユーザーをブロックする行為について、「指定されたパブリック・フォーラム」への参加に対して、違憲状態の制限を強要するものだ」と主張したとのことです。

これに対して2019年7月9日の米連邦第2巡回区控訴裁判所は、「米憲法修正第1条は、あらゆる種類の公的目的にソーシャルメディアアカウントを利用する政治家・官僚は、開かれたオンライン上の会話となるはずの場から、政治家・官僚が同意しない意見を表明したからという理由で、ユーザーを排除することを許可しない」として、トランプ氏のTwitter上の反対派ユーザーのブロックは米合衆国憲法修正1条の言論の自由に反して違憲であるとし、第一審判決を支持する興味深い判決を出しています。

アメリカ合衆国憲法
修正第1条(信教・言論・出版・集会の自由、請願権)
連邦議会は、国教を定めまたは自由な宗教活動を禁止する法律、言論または出版の自由を制限する法律、 ならびに国民が平穏に集会する権利および苦痛の救済を求めて政府に請願する権利を制限する法律は、これを制定してはならない。

7.「パブリック・フォーラム」論
ここで登場するパブリック・フォーラムとは、道路・広場・公園などのように、交通や憩いの場というだけでなく、人々が自由に交流し会話や表現などを行う場所のことです。表現のためにはこのような表現の空間の確保は不可欠であり、このような場所を、その場所・施設などの管理者の管理権などを理由に安易に国民の利用を制限することは、表現の自由への規制につながります。

この点、アメリカの判例は、政府の所有・管理する施設①道路・広場・公園などの「伝統的なパブリック・フォーラム」②表現のために特に設置された公会堂等の「指定されたパブリック・フォーラム」③上記いずれにも該当しない場所である「非パブリック・フォーラム」、の3つに分類しています。

そしてアメリカの判例は、①の「伝統的なパブリック・フォーラム」における表現の自由の法律などによる規制・制限は裁判所の厳格な審査が適用され、②の「指定されたパブリック・フォーラム」については設置・維持については管理者の裁量であるが、設置した場合には①の伝統的なパブリック・フォーラムと同様に裁判所の厳格な審査が適用されるとしています。また、③の「非パブリック・フォーラム」については国民の表現のために利用させるか否かは管理者の裁量であるが、しかしその「見解」や表現内容による差別を管理者はしてはならないとアメリカの判例はしています。

さらに、例えば自治体の掲示板や広報誌などのコラム欄を市民に開放する場合などは、当該場所・空間は「指定されたパブリック・フォーラム」に該当すると解されています(高橋和之『立憲主義と日本国憲法 第5版』252頁)。

トランプ氏のTwitterのブロックに関する本判決は、本来は政府の施設などに関するパブリック・フォーラム論を民間企業であるTwitter社に援用し、政治家・官僚などが「あらゆる種類の公的目的にソーシャルメディアアカウントを利用する」場合には、当該SNSのアカウントは「開かれたオンライン上の会話の場」(パブリック・フォーラム)となり、「政治家・官僚が同意しない意見を表明したからという理由で、ユーザーを排除すること」つまり政治家・官僚SNSにおける「ブロック」は、憲米合衆国憲法修正1条の「言論の自由」を侵害する違憲なものであると判断したものであり、非常に画期的な判決であるといえます。

(なお、このアメリカのトランプ氏の裁判は、米合衆国最高裁判所において、トランプ氏が2021年に大統領でなくなったことを受けて訴えの利益が失われたとして却下されています。)

この表現の自由に関するパブリック・フォーラム論は、日本でも京王電鉄の吉祥寺駅構内において、京王電鉄の許可なしに市民がビラ配布などを行った表現行為が鉄道営業法35条(無許可の演説)、刑法130条(不退去罪)に該当するか否かが争われた事件において、1984年の最高裁判決は憲法21条1項の表現の自由も無制約ではないとして当該市民への鉄道営業法、刑法の適用を認めたものの、伊藤正己裁判官補足意見においてパブリック・フォーラム論に言及したことが大いに社会的注目を集めました(最高裁昭和59年12月18日判決)。

すなわち、伊藤裁判官の補足意見はつぎのように述べています。

「道路、公園、広場などの「一般公衆が自由に出入りできる場所は、それぞれその本来の利用目的を備えているが、それは同時に、表現のための場として役立つことが少なくなく…これを「パブリック・フォーラム」と呼ぶことができよう。このパブリック・フォーラムが表現の場所として用いられるときには、所有権や、本来の利用目的のための管理権に基づく制約を受けざるを得ないとしても、その機能にかんがみ、表現の自由の保障を可能な限り配慮する必要がある。」

もとより、道路のような公共用物と…(私鉄の鉄道会社の敷地などの)私的な所有権、管理権に服するところとは、性質に差異があり、同一に論ずることはできない。しかし、後者にあっても、パブリック・フォーラムたる性質を帯有するときには、表現の自由の保障を無視することができないのであり、…前述の考量の結果、表現行為を規制することが表現の自由の保障に照らして是認できないとされる場合がありうる。

このように、アメリカの判例のパブリック・フォーラム論は、政府・公的機関の所有・管理する場所での表現の自由に関するものであるのに対して、日本の伊藤裁判官の補足意見のパブリック・フォーラム論は、国・自治体や公的機関の所有・管理する場所であるかどうかではなく、表現が行われる場所・空間が「公開された場所・空間」かどうかという性質に着目し、表現の自由や集会の自由の制約に関する比較衡量を行おうとしている点に大きな意義があるといえます(平地秀哉「駅構内でのビラ配布と表現の自由」『憲法判例百選Ⅰ 第7版』126頁)。

·この伊藤裁判官のパブリック・フォーラム論は、京都府の勤労会館における集会の自由が争われた京都地裁平成2年2月20日判決(京都府勤労会館事件)でも採用され、その後、同じく公民館における集会の自由に関する泉佐野市民会館事件(最高裁平成7年3月7日判決)上尾市福祉会館事件(最高裁平成8年3月15日判決)や、公共施設だけでなく民間企業のホテルにおける集会の自由に関するプリンスホテル日教組会場使用拒否事件(東京高裁平成22年11月25日判決)など、公的施設だけでなく民間の私的な開かれた場所・空間における集会の自由・表現の自由をできるだけ保障しようとする日本の判例のスタンスに受け継がれています(野中俊彦・中村睦男・高橋和之・高見勝利『憲法Ⅰ 第5版』365頁、367頁)。

8.まとめ
このような日本やアメリカの憲法、とくにアメリカのトランプ氏のTwitterのブロックに関する控訴審判決などを見てみると、もし日本でも河野太郎大臣などに対してブロックされたユーザー・国民から同様の訴訟が裁判所に提起された場合に、日本の裁判所がどのような判断を行うのか多いに気になるところです。

従来、パブリック・フォーラム論については政府・公的機関の施設・場所などを対象にしてきたアメリカの裁判所ですら、Twitter社などの民間企業のSNSにおける政治家・官僚のアカウントについてはパブリック・フォーラムに該当するとして、政治家・官僚が反対派のユーザーのブロックを表現の自由の侵害で違憲との判断をしたのであり、パブリック・フォーラム論について政府・公的機関の施設・場所なのか民間の施設・場所なのかの違いを重視せず、公開された場所における表現の自由などを保障しようとする日本の裁判所では、より河野大臣などに不利な判決がでる可能性も無きにしもあらずなのではないでしょうか。

上でも見たように、表現の自由、言論の自由は憲法が保障する基本権人権のなかでも、国民が政治に参画するための前提の人権という点で、民主主義国家において特に重要な人権です。そして、河野太郎氏は行政のトップの内閣の大臣であり、河野氏のTwitterアカウントは国民に開かれた議論の場であるだけでなく、行政や政治に関する国民の「知る権利」からも極めて重要な場所・空間であるからです。

日本の憲法や情報法などに関する法律学の学者や法律家の先生方や、SNSの運営などを行うIT企業の実務家の方々、政治家・官僚などの方々などの、今後のこの問題に関するご見解・コメントなどにも大いに注目したいと思います。

■追記(9月9日)
このブログ記事に対しては、情報法、知的財産権法やITがご専門の弁護士の足立昌聰先生(@MasatoshiAdachi)などから、民間企業であるTwitterなどSNSにおける表現の自由の問題の難しさなどに関して、8日夜に貴重なご教示・ご感想をいただきました。足立先生、誠にありがとうございました。

トランプ氏とSNSの問題に関しては、2021年1月の米議会襲撃事件を受けて、TwitterやFacebookなどは相次いでトランプ氏のアカウントをBANして永久追放としました。このようなSNS各社の動きに対しては、ドイツのメルケル首相が「表現の自由はとても重要で、それを規制できるのは議会の立法だ。」と述べたことが社会的に注目されました。

・メルケル独首相のツイッター社等のトランプ氏追放への「苦言」を考える-表現の自由・憲法の構造

Twitterなど民間企業であるSNSにおける表現の自由、情報社会におけるSNSと政治の問題などは、今日的な非常に難しい問題であると思われます。

■追記(9月15日・河野大臣のTwitter上のブロックを憲法の統治の部分から考える)
ネット上で、この私のブログについて、ある方より、「憲法43条1項など、憲法の統治の部分からもこの問題を論じてみては」との貴重なご指摘をいただきました。

憲法の統治の部分から考えても、河野大臣は衆議院議員でもありますが、国会議員は「全国民の代表」です(憲法43条1項)。つまり選挙で当選して一度国会議員になったのであれば、支持者達の意見ばかりでなく、反対派や批判的な国民の意見にも十分耳を傾け、国会議員として少数意見にも配慮した熟議を行い、全国民のためになるような国会議員としての活動を行わなければなりません。そのため、河野大臣が大臣としてTwitter社から公認マークを受けているTwitterアカウントにおいて、自分に批判的な意見の国民を大量にブロックすることは憲法43条1項の「全国民の代表」にも違反しています。

また、河野大臣は大臣ですので公務員ですが、「すべて公務員は全体の奉仕者であって一部の奉仕者ではない」憲法15条2項、国家公務員法96条1項)と規定されているとおり、その公務には公平性・中立性が憲法レベルで要求されるので、河野大臣が大臣としてのTwitterアカウントにおいて批判的意見の国民を大量にブロックすることは、これも大臣としての公務に要求される公平性・中立性を遵守しておらず、自身の支持者の国民に対してのみ「一部の奉仕者」として職務を行っているものであり、これも憲法15条2項、国家公務員法96条1項に違反しているものと思われます。

このように、河野大臣がTwitterで自身に批判的な国民を大量にブロックしていることは、憲法43条1項、15条2項に違反しているなど、日本国憲法の統治に関する部分からも大きな問題をはらんでいるといえます。

■関連する記事
・「幸福追求権は基本的人権ではない」/香川県ゲーム規制条例訴訟の香川県側の主張が憲法的にひどいことを考えた
・東京医科大学の一般入試で不正な女性差別が発覚-憲法14条、26条、日産自動車事件
・懐風館高校の頭髪黒染め訴訟についてー校則と憲法13条・自己決定権
・コロナ下のテレワーク等におけるPCなどを利用した従業員のモニタリング・監視を考えた(追記あり)-個人情報・プライバシー・労働法・GDPR・プロファイリング
・欧州の情報自己決定権・コンピュータ基本権と日米の自己情報コントロール権

■参考文献
・芦部信喜・高橋和之補訂『憲法 第7版』111頁、180頁
・高橋和之『立憲主義と日本国憲法 第5版』252頁
・野中俊彦・中村睦男・高橋和之・高見勝利『憲法Ⅰ 第5版』365頁、367頁
・山本龍彦・横大道聡『憲法学の現在地』139頁
・安西文雄・巻美矢紀・宍戸常寿『憲法学読本』93頁
・平地秀哉「駅構内でのビラ配布と表現の自由」『憲法判例百選Ⅰ 第7版』126頁

























このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

表現の不自由展かんさい
(「表現の不自由展かんさい」Facebookより)

1.はじめに
新聞報道などによると、「表現の不自由展かんさい」の実行委員会が、会場である大阪府立労働センター「エル・おおさか」の指定管理者「エル・プロジェクト」が6月25日付で会場の利用承認を取消したことを受けて、本日6月30日、同指定管理者の利用承認取消の処分の取消および同処分の執行停止を求める取消訴訟を大阪地裁に提起したとのことです。
・表現の不自由展実行委が提訴「会場使わせないのは憲法違反」大阪|毎日新聞

自治体の公民館などの公の施設において集会や表現行為を行おうとする住民等と、それを施設の利用規約などを理由として謝絶しようとする施設との関係については、集会の自由・表現の自由の問題として裁判所で争われてきた論点ですが、判例に照らすと本事件においては会場の指定管理者側が不利な状況に思われます。以下、本事件の事案の概要と、公の施設における集会の自由に関する判例、本裁判の後について、考えてみたいと思います。

2.事案の概要
「表現の不自由展かんさい」の実行委員会は、大阪の大阪府立労働センター「エル・おおさか」で7月16日から18日まで同展を開催するために施設の利用申請を同センターを運営する指定管理者「エル・プロジェクト」に3月に行い利用承認がおりたものの、6月中旬以降、中止を求める電話や街宣車による抗議活動が相次いだため、同指定管理者は「センターの管理上の支障がある」として、6月25日に利用承認の取消の処分を行ったとのことです。

それに対して「表現の不自由展かんさい」実行委員会は6月30日に大阪地裁で、同指定管理者の利用承認の取消処分の取消を求める取消訴訟(行政事件訴訟法3条2項)を提起するとともに、同取消処分の執行停止の申立(同法25条2項)を行ったとのことです。

3.大阪地裁の裁判はどうなるか?ー泉佐野市民会館事件
(1)泉佐野市民会館事件(最高裁平成7年3月7日判決)
自治体などの公の施設における集会の自由・表現の自由(憲法21条1項)の拒否の問題について、泉佐野市民会館事件(最高裁平成7年3月7日判決)において最高裁は、施設側が住民からの集会の申請を拒否できるのは、「集会の自由の保障の重要性よりも…集会が開かれることによって生命、身体または財産が侵害され、公共の安全損なわれる危険を回避し防止する必要性が優越する場合に限られる」とし、その危険性の程度は、「明らかな差し迫った危険の発生が具体的に予見されること」と非常に厳格な判断を行っています。(ただし判決は住民側の敗訴。)

この泉佐野市民会館事件のあと、公の施設における集会の自由については上尾市福祉会館事件(最高裁平成8年3月15日判決)においても最高裁は同様の判断を示しており、これが判例の流れとなっています。(さらにプリンスホテル事件(東京高裁平成22年11月25日判決)は、自治体などの公の施設だけでなく、民間企業であるホテルの集会場についても、泉佐野市民会館事件などの考え方が当てはまることを示しています。)

(2)「表現の不自由展かんさい」に関する大阪地裁の訴訟はどうなるか?
このように、自治体などの公の施設における集会の自由に関する判例に照らすと、「表現の不自由展かんさい」に関する大阪地裁の本訴訟は、会場である大阪府立労働センター「エル・おおさか」の指定管理者「エル・プロジェクト」側が敗訴する可能性が高いように思われます。

このように、裁判所が施設における集会の自由に関する判例が施設側の施設利用の拒否を厳格に判断し、住民側の集会の自由を非常に重視しているのは理由があります。

集会の自由などの表現の自由(憲法21条1項)は、住民などの国民・個人が表現行為をすることにより自分の人格を発展させるという、個人の「自己実現の価値」だけでなく、表現活動により国民が政治的な意思決定に参画するという「自己統治の価値」(=民主主義)があるからです(芦部信喜『憲法 第7版』180頁)。

つまり、わが国は民主主義の国(憲法1条)であり、さまざまな多様な情報や意見が社会において自由に発信され流通し、また、さまざまな情報や意見を国民・個人が自由に受取り、社会のさまざまな場面で国民が自由闊達に議論することが可能な状況において、議論によりさまざまな意見が競争することにより、真理やよりよい結論に到達することができるという「思想の自由市場論」が、判例や学説が表現の自由を重視する根底にあります(野中俊彦・中村睦男・高橋和之・高見勝利『憲法1 第5版』352頁 )。

(3)会場である大阪府立労働センター「エル・おおさか」の指定管理者側が敗訴する可能性
そのため、大阪地裁に提起された本事件の取消訴訟は、施設の指定管理者側が敗訴する可能性が高いといえます。

また、施設の利用承認取消処分の執行停止の申立についても、同展の開催期間がせまっており、それを過ぎると集会や表現の機会が失われてしまうため、「処分、処分の執行又は手続の続行により生ずる重大な損害を避けるため緊急の必要があるとき」(行政事件訴訟法25条2項)に該当するとして、大阪地裁が執行停止も認める可能性もあるといえます。

4.本裁判のあとについて・近代立憲主義憲法
最高裁の判例や憲法の学説・通説にたつと、大阪地裁の本訴訟の今後の見通しは上でみたとおりになると思われます。しかし、このような結論には少なくない国民・住民が違和感を感じるのではないでしょうか。

近年、「表現の不自由展かんさい」などの「表現の不自由展」の活動を支持・応援するいわゆるリベラル派・左派の人々は、「表現の不自由展」などに関する自分達の好む表現の自由・集会の自由(例えば、昭和天皇の写真を燃やす表現や、韓国の慰安婦像の表現など)を最大限実現することを主張する一方で、保守派・右派の人々の表現の自由や集会の自由を法規制する運動を展開してきています。

具体的には、いわゆるヘイトスピーチ対策法を国会で成立させ、また川崎市、大阪市などの一部の自治体では、罰則つきのヘイトスピーチ禁止条例などが制定されています。さらに川崎市などでは、リベラル派の弁護士などが自治体に指導するなどして、公の施設において上でみた泉佐野市民会館事件の最高裁の判断枠組みよりも緩い要件で保守派・右派の集会の申請を拒否できるように自治体の公の施設の規則・基準などの要件緩和の改正を行っています。
・「本邦外出身者に対する不当な差別的言動」の解消に向けた取組|川崎市

(また、最近はネット上の批判的な言論を規制する方向で、プロバイダ責任制限法が改正されました。しかしこれも、いわゆるインフルエンサーなどの、ネット上の有名人・芸能人などのごく一部のネット上の社会的地位の高い人々だけを法的に保護し、一般の庶民の国民のネット上の表現を規制する、あるいは一般人の表現を委縮させる結果になっているように思われます。)

しかし、このようにリベラル派・左派の政治政党やマスメディア、その支持者達が、自分達の好む表現・集会の自由は認める一方で、自分達が好まない表現・集会は規制・禁止することは、日本社会における表現の自由の許容される範囲を恣意的に自分達側に有利に縮小していると言えるのではないでしょうか。これは国民の一部の人々による一種の焚書坑儒・文化大革命、あるいは言論や思想の弾圧、一部の国民による事実上の検閲なのではないでしょうか。

そのようなリベラル派・左派の主張・行動や立法活動などは、恣意的に自分達と違う意見の保守派・右派などの意見を法的に規制・禁止しており、つまり自分達と違う意見について「表現を不自由」にしているのであって、日本の表現の自由の前提である、上でみた、各人が自己の意見を自由に表明し、議論により意見を競争させることにより真理やよりよい結論に到達できるという「思想の自由市場論」矛盾しているのではないでしょうか。

このようなリベラル派・左派の表現の自由に関する態度や見解は、「国家の立法や政策などにより、国民の表現の自由などの人権を規制し、国民の人権保障を行うべきである」という、「国家権力への強い信頼感」に基づいた「国家による人権保障」「国家による自由」の考え方が根底にあるように思われます。

この「国家による人権保障」「国家による自由」は、憲法に「表現の自由、集会の自由などの人権を、自由で民主的な基本秩序を攻撃するために利用する者は、これらの人権を喪失する」(ドイツ基本法18条「基本権の喪失」明記し、民衆扇動罪などの特別刑法の法令を設けている、第二次世界大戦後に発展したドイツ、フランスなど欧州各国のポスト近代憲法(脱近代憲法)の諸国のいわゆる「闘う民主主義」の考え方に親和的です。

しかし、日本アメリカなどと並んで、ポスト近代憲法の国ではなく、伝統的な近代憲法の国です。つまり、憲法13条が「すべて国民は、個人として尊重される生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と規定するように、わが国の憲法は、人間はこの世に生まれただけで尊い存在であり、一人一人違う国民・個人のその人格や個性は最大限尊重されなければならないという「個人の尊重」「生命、自由および幸福追求に対する国民の権利」(幸福追求権)などの「国民の基本的人権の確立」を国家の目的として掲げる近代立憲主義憲法の国です。近代立憲主義とは、18世紀のフランス革命やアメリカ独立戦争がその端緒であるという歴史的経緯をみても、なにより国民の個人の尊重と基本的人権の確立と、国家権力の暴走から国民を守ることを重視します。

そして、日米などの憲法にはドイツ基本法18条のような「闘う民主主義」の条文は存在せず、「思想の自由市場論」に立脚し、表現の自由を最大限認める方向の憲法となっており、表現の自由などの基本的人権は原則として他人の人権と衝突した場合のみに制限が許されるとされています(「公共の福祉」・憲法11条、12条、22条、29条)

2014年の京都朝鮮学校事件の最高裁判決(最高裁第三小法廷平成26年12月10日判決)が示すように、ヘイトスピーチの問題のように、ある表現・集会などのある集団に対する憎悪的な表現行為が当該集団や他人の人権や権利を侵害した場合についても、裁判所は、人種差別撤廃条約を援用しつつも、表現行為が他の人間の人権と抵触した場合の解決方法と同様に、従来どおり名誉棄損、業務妨害として不法行為による損害賠償責任(民法709条)の問題として事後的な法的解決を行っています。

(なお、人種差別撤廃条約は国連における採択から約30年後の平成8年にわが国も批准しましたが、そのように批准に時間がかかった背景には、同条約4条(a)(b)が人種差別的思想の流布などの処罰を義務づける趣旨の規定であり、憲法21条が保障する表現の自由などの権利に抵触する懸念があったとされています。つまり具体的には、人種差別的表現はある意味、文明評論や政治評論などの表現の自由の核心部分である政治的表現の自由との限界を定めることが困難であり、そのような正当な言論を不当に委縮させるおそれがあるからであるとされています。

そこで、日本政府は同条約の批准にあたり、“同4条について日本国憲法21条の下における諸権利の保障と抵触しない限度において義務を履行する”という趣旨の「留保」を付けた上で批准を行っています。同4条については、日本だけでなく、アメリカ、スイス、イギリス、フランスなども同様の留保や条件をつけています(阿部康次「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約」『ジュリスト』1086号73頁)。


すなわち、日本の憲法の基本的な考え方は、社会権などの「国家による人権保障」「国家による自由」ではなく、自由権・精神的自由、「国家からの自由」を第一に重視する伝統的な近代立憲主義憲法のものであり、独仏などの欧州のポスト近代憲法(脱近代憲法)とはその基本構造が大きく異なるものです。

そのため、日本がドイツ・フランスなど欧州の憲法・法令の構造と日本の憲法・法令の構造との差異を十分に検討することなく、ドイツ・フランスなどのヘイトスピーチ法制などを無批判に安易に輸入することは、法的な矛盾や社会のゆがみなどを生み出してしまう危険があるため、慎重であるべきです(辻村みよ子『比較憲法 新版』126頁)。

現代の国家は、社会保障などの「国家による自由」「国家による人権保障」の社会権が重視される、いわゆる福祉国家・行政国家(行政国家現象)であり、新型コロナの世界的な大流行により、今後もますます国の福祉国家化が進行するものと思われます。

しかし、近代立憲主義憲法の国においては、社会権が重要であることはもちろんですが、国家権力の暴走の危険から国民を守るという価値、つまり「国家からの自由」表現の自由などの自由権(精神的自由)に関わる基本的人権が第一に重要であるはずです。近年、ドイツでポスト近代的な憲法論に対する批判的な連邦憲法裁判所の判決(BVerfG 93.266)などが現れ、ドイツなどの学界もポスト近代的な憲法論のゆき過ぎを認めつつあることは、その証拠ではないでしょうか(樋口陽一・小林節『「憲法改正」の真実』90頁)。

かりに今回の「表現の不自由展かんさい」に関する訴訟において「表現の不自由展」側が勝訴するとしても、そろそろ日本の裁判所や憲法学界、政府や自治体、国会、あるいはリベラル派・左派の人々も、ヘイトスピーチ法制やプロバイダ責任制限法などの日本の表現行為の法規制が推進されつつある状況を再検討すべき時期なのではないでしょうか。

「批判や差別されている人々がかわいそう」、「ポリティカル・コレクトネス(political correctness)」等という人権活動家、反差別主義の活動家、社会学者、フェミニズムなどの人々の感情的でポスト近代的な主張や見解に、ここ10年の日本の憲法学の主流の学者の先生方は大いに耳を傾け、そのような主張や見解を非常に重視した憲法学がここ最近、展開されてきたように思われます。政府や国会もそのような主張や見解を重視した立法や政策を推進してきました。

しかし、そろそろ憲法学の主流の学者の先生方も、ポスト近代的な流行りの反差別活動家、人権活動家やフェミニズムの活動家、社会学者などに一方的に押されるばかりでなく、伝統的な近代立憲主義や自由主義・民主主義の理念に立ち返った、オーソドックスな憲法学・法律学の立て直しを行うべきなのではないでしょうか。

■参考文献
・芦部信喜・高橋和之補訂『憲法 第7版』180頁
・野中俊彦・中村睦男・高橋和之・高見勝利『憲法Ⅰ 第5版』352頁
・辻村みよ子『比較憲法 新版』126頁
・樋口陽一・小林節『「憲法改正」の真実』90頁
・阿部康次「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約」『ジュリスト』1086号73頁

■関連する記事
・日本共産党の衆院選公約の「非実在児童ポルノ」政策は憲法的に間違っているので撤回を求める
・メルケル独首相のツイッター社等のトランプ氏追放への「苦言」を考える-表現の自由・憲法の構造
・ヘイトスピーチ対策法案を憲法から考える
・京都朝鮮学園事件判決とヘイトスピーチ規制立法について
・「幸福追求権は基本的人権ではない」/香川県ゲーム規制条例訴訟の香川県側の主張が憲法的にひどいことを考えた
・東京医科大学の一般入試で不正な女性差別が発覚-憲法14条、26条、日産自動車事件
・懐風館高校の頭髪黒染め訴訟についてー校則と憲法13条・自己決定権













このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ